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レバノン拘束記 (2024年1月)
ハマスのイスラエル攻撃に端を発したパレスチナでの戦争は激化と拡大の一途をたどっている。中東を個人観光旅行していた私は、レバノン南部のイスラエル国境に近い都市スールでパレスチナ難民関連の進入禁止区域に足を踏み入れ、レバノン軍に21時間に渡り拘束された。安全確保と注意喚起のため、ここに経緯を記す。
1月20日
この日は首都ベイルートから日帰りで南部のスールを再訪することにしていた。3日前にもスールを訪れ、途中で時間切れになった。翌日レバノンを出国する予定で、最後の空いた一日を再度この街に充てることにした。
レバノンへ来たのは歴史的興味からである。スール、サイダはフェニキア人の古代都市ティルス、シドンにあたる。
3か月ほど前、ハマスによるイスラエルへの攻撃が起き、パレスチナ情勢を片目でにらみながら旅行を続けていた。よりによって自分がこの地域にいるときに厄介な事態が始まったと思った。
日本外務省からは、イスラエルと国境を接する限られた地域にレベル4の退避勧告が、レバノンのほとんどにレベル3の渡航中止勧告が出ていた。ベイルートや3日前のスールで特に異変は感じなかった。
15:40頃
スールの旧市街、市場、海沿いなど見ていなかったところを一通り見終え、明るいうちにベイルートに戻ろうと、バス乗り場(33°16'24.7"N 35°12'49.7"E)まで近道をしようとした。
市域東側にパレスチナ難民キャンプがある。レバノンに12ある公式難民キャンプの中で最も古いエル・バスキャンプで、75年の歴史がある。今では市街地の中に1㎢にわたって難民キャンプがあるわけだが、3/4世紀前、当時の郊外に難民キャンプができ、その後、拡大した市街地に吞み込まれたという方がおそらく正しい。ベイルートへの直通バス乗り場はこのキャンプに沿って走る幹線道路脇にある。
同じ大通りを戻るより、街区の生活道路を斜めに突っ切った方が面白くもある。コンクリートブロックが積みあげられている地点(33°16'27.4"N 35°12'38.6"E)があり、その時はさして気にも留めず、そこからキャンプに入り込んだものと思われる。
後から国連パレスチナ難民救済事業機関などのウェブサイト等を見ると、チェックポイントでレバノン軍が管理にあたっていることになっているが、誰もいなかった。
15:47
南方向に歩いてゆくと、2ブロック南の十字路に商店や飲食店が集まっており、パレスチナ旗が架かって、PLOパレスチナ解放機構のアッバス議長、故アラファト前議長の写真が掲げてあった。スマホで写真を撮っていると、近くのハンバーガー屋のおじさんが見咎め、何か言ってきた。
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最初に「許可を取ってあるのか?」と聞かれた気もするが、英語の訛りもひどく、深く認識しなかった。スールにパレスチナ難民キャンプがあることは知っていたが、平和ボケした日本人の発想で、着の身着のまま難を逃れてきた人たちが仮設のテントか何かで暮らしているイメージだった。ここは、周囲と変わりのない市街地で、鉄筋コンクリートの建物もあり、普通の生活が完全に定着している。
しかし、おじさんと話しているうちに、ここは難民キャンプなのだとうすうす感じ始めた。そうこうするうちに4~5人の男たちが、危険を感じるほどではないが、ピリピリした雰囲気で集まってきた。ここから離れた方がいいと思い、仲間たちの前で友好的に振る舞ってくれたおじさんに感謝の握手をし、お礼を言って別れた。バス乗り場はここからほぼ真東だが、その時の流れで南方向に進んだ。
15:57
まっすぐ進むと、古代ローマの遺跡にぶつかり、そこで東方向に左折した。簡易ゲートのようなものが設置してあった(33°16'15.5"N 35°12'48.3"E)。難民キャンプのメインの出入口にあたるゲートだと思われる。再びアラファト、アッバス両氏の肖像などが掲げられていたので、スマホで写真を撮った。2枚目を撮った後、ゲートの向こうの詰所から兵士が出てきた。
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写真を撮ったのがまずかったと思い、英語で「写真消すよ」と言ったが、耳を貸さない。パスポートを出すよう言われ、「ヤバニーで、ツーリストだ」と言った。兵士は2人いて無線で連絡を取り、危険物を持っていないか検査された。
やがて、英語を話す別の眼鏡の兵士がやって来た。「中国人か?何人か?」「何をやっていたのか?」「どこから入ったのか?歩哨が立っていなかったのか?」「許可が必要なことを知っているか?」などを尋ねてきた。
16:30頃?
眼鏡の兵士もしばらくどこかと無線連絡を繰り返し、その間、詰所の中で待機させられた。最終的に「あなたは逮捕されます ( "You will be arrested.") 」 と言ってきた。さすがにジョークかと思い、Arrested? Are you serious?などと聞き返した。しかし「ここは許可が必要な地域ですが、あなたはそれを持っていません。法を破りました」と続いた。「パニックにならないでください」と言って、やがて手錠が見えた。外国人に手錠をかけるとなると、日本大使館にも通告がいくだろうし、こりゃあ大事になったなと思った。私が騒ぎだしたりして腕力で組み伏せて怪我でもさせたら事態はより複雑になる。それで、パニック云々と言ったのだ。
「これから所持品の詳細な検査をします」と言われ、大通りを跨いだ地点(33°16'13.3"N 35°12'53.1"E)まで、右腕を屈強な兵士に絡まれて手錠がかかったまま歩いて移動した。路上の一般人が興味深そうにこちらを見ている。おとなしくしているので特に手荒なことはない。そこで軍の運搬車両(荷台の両側に長椅子を渡して左右3人計6人程度乗れるようなタイプ)の荷台に乗って、交代の兵士とともに、スール近郊の前線基地のようなところに連れて行かれた。
17:00頃~
軍の前線基地のようなところは林の中にあり、到着する頃にはかなり暗くなっていた。ベイルートでは日没は17時頃であり、ここもほぼ同じのはずであるが、樹陰でより暗然としている。プレハブのような建物がいくつかあって、そのうちの一つに入った。
机と書類棚、デスクトップパソコン、コピー機の他に、2段ベッドが2つあり、兵士たちが寝泊まりしている場所だった。手錠を外され、そこで所持品を全部調べられた。水や食料など必要なものがあれば言えと言ってきた。パソコンで細目まで記入する書類を作るらしく、米ドルの1ドル札が42枚などと数えて、チップ用の1ドル札がそんなにたまっているのかと自身でも驚いた。日本円と人民元はどこの通貨かわからないらしく、こちらから教え、千円札の夏目漱石を見て、ジャッキー・チェンかなどとつまらないことを言いあっている。カード類はクレジットカード、交通カードなどを分類し、日本の運転免許証はこれは何かと聞いてきた。眼鏡の英語の男が「難民キャンプだと知っていたか?」「キャンプに入るのに許可が必要なことを知っていたか?」などと尋ねてきた。どこからキャンプ内に入ったかが気になるらしく、再び聞いてきて、警備が立っていなかったか繰り返し確認した。また、米ドル、ユーロの他になぜ人民元をもっているのかと聞かれた。
"I am very sorry." と詫びを入れると「謝っても法律の気が済むわけじゃないから無駄だ(謝って済むなら法律はいらない)」と言ってきた。恣意的に物事を進めているのではないとわかり少し安心したが、同時に法令に基づいているとなると手続き的に時間がかかることになるだろうなと思った。翌日午後3時半過ぎのベイルート発キプロス行きの飛行機に乗れるか心配になってきた。
時計、スマホも取り上げられたので、これ以降は時間が分からなくなった。大の男が7~8人集まってきている割には手際が悪く、仕事が遅い。案の定、書類ができるまでに時間がかかった。明かりで内部が丸見えになった周囲のプレハブにもやはり2段ベッドがあった。
18:00頃~
所持品リストのアラビア語書類に署名をすると、別の場所に移るため、再び手錠をかけられ、同じタイプの車に乗った。行った先は、スール近郊のやはり軍の施設と思われる場所だが、建物はボロいが仮設ではない。最初に入った部屋の時計が18:20を示していた。
そこはおそらく副官(伍長としておく)のオフィスで、その後、別棟のサージェント(軍曹としておく)のオフィスに移り、取り調べを受けた。30代と思われる軍曹は、もう日が暮れているにもかかわらず、最初 "Good Morning!" などと挨拶してきた。どう返したものかと思ったが、下手な抵抗はせずに、同じように "Good Morning!" と応じた。終始丁重であった。伍長の部屋にも、軍曹の部屋にも、ベッドがあり、寝泊まりもしている場所である。得意でないという英語と翻訳アプリで、年齢、婚姻状況、職業、旅行の目的やルート、知らずに入ったのかなどを聞かれ、レバノン南部国境地帯の状況を認識しているか質してきた。パレスチナ難民キャンプに入るには防衛省の許可が必要で、内部には銃器の携行者もいるので危ないなどと教えられた。取り上げられたスマホのパスワードを聞いてきたので素直に応じ、撮影写真とメッセンジャーアプリを主に見て、自分のスマホで撮影していた。
途中で2度ほど席を外してくれと言われ、中座して部屋を出入りした。「コーヒーを飲まないか」と聞かれ断ったところ、残念そうな顔をしたので応じると、部屋にあるコーヒーメーカーでエスプレッソを入れてくれた。最後に、私から「明日の飛行機に乗るので今日中にベイルートに戻れるか」と聞くと、「インシャ・アッラー」と返答してきた。
伍長のオフィスに戻ると時計は20:00を指していた。何か不足はないか聞かれ、500mlのミネラルウォーターを手渡された。おそらく取り調べの内容を紙にして次の段階に移る手続きのため、そこで20:30まで待った。
20:30~
再び別の場所に移るため、手錠をかけられ、今度は乗用車に近い車両に乗せられた。緊急車両で、猛スピードで飛ばし、追い越しをかけるときなどサイレンを鳴らした。道路標識からベイルート方向に向かって走っていることが分かった。ベイルートまで行くのかと思ったが、30分強で止まった。サイダあたりまで来たなと思った。付き添いの伍長は「心配ない、大丈夫ですよ」などと落ち着いた口調で言うものの、次にどこに行って何をするかについては、言葉の問題もあり、皆目わからない。
最初に入った鉄筋コンクリート棟2階の部屋に医療器具が並んでいてドキリとした。ウソ発見器にでもかけられるのかと思ったが、手錠をかけられたまま血圧測定し、過去の病歴を聞かれたので「極めて健康です」などと答えると医者は苦笑していた。隣の別の棟に移る時に「今日はここで寝てもらいます」と言われ、ここに連れてこられた理由が分かった。格子などがあり拘留施設である。検査は、高血圧や糖尿病の持病持ちが一夜を正常な健康状態で明かすための診断だった。
手錠を解かれ、伍長と看守は、私からの押収品の引継ぎで、細目の一つ一つに渡って確認していた。先に別の場所で書類を作ったのはこのためで、意外としっかりしているなと思った。前の順番の男が看守に悪態をついて怒鳴りつけられていた。怒られた男は軍関係者には見えない。一般の拘置所なのかとこの時は思った。
ここでも看守の事務作業に時間がかかった。2人いて、どちらもスウェットなどのだらしのない恰好をしている。父母の名を聞かれ、ローマ字のスペルを教えるときにカウンターの内部に入ると監視カメラのモニターが見えた。スマホのパスワードを聞かれ教えた。映画のワンシーンのようにマグショットを撮影された。持たされた番号札は60番だった。
23:00頃~
拘留施設2階の一室で取り調べが始まった。発音が不明瞭だったが、取調官(interrogator)を名乗ったように思う。フランス語の担当だとも言った。実務経験も十分で、賢明でユーモアもある感じだった。あまり大きくない部屋で、机と椅子が置いてあり、私は取調官に正対せず部屋の角に斜めに置いてある椅子に座った。普段着で、夜遅くお疲れのようだった。英語でやり取りし、アラビア語で調書を作っていた。
「逮捕されたのは初めて?」「他の国で逮捕されたことはあるか?」「職歴、今回の旅行の経緯は?」「パレスチナ人の知人はいるか?」「パレスチナ自治区に行ったことはあるか?」「イスラエルに行ったことはあるか?」「イスラエル人の知り合いはいるか?」「モサドに知り合いはいるか?」といったところ。
尋問中、取調官は「今レバノン南部はポップコーンだ」と言った。その形容の仕方と「ポォーン、ポォーン」と爆弾が弾ける様子を手で模した仕草が記憶に深く刺さった。
しばらくして、馬鹿な旅行者が間違って難民キャンプに入ったことが分かってきたらしく、サッカーの話題になり「昨日、日本代表、イラクに負けただろ?」「カタールのワールドカップでの日本代表は素晴らしかった」などとふってきた。最後に、アラビア語の話になり、レバノンのアンミーヤをいくつか教えてもらい、面接は終わった。
調書は紙3枚程度になった。明日の飛行機に乗りたいというと、ここでも「インシャ・アッラー」が返ってきた。
入所手続きや取調べの際の移動で、この施設は2階建であまり大きくなく、拘置部屋は数室であることが察せられた。自分の他に、怒鳴りつけられた男を含め2人の拘置者を目撃した。
24:00頃?
2階の独房にて就寝。8畳ほどの部屋で、格子の牢獄ではないが、扉の開け閉めは当然自分ではできない。マットが置いてあり、ロッカーに毛織物のゴワゴワした毛布が入っていた。窓は2つあり、開閉できるが、外は見えない。先ほどのモニターとつながっていると思われる監視カメラが天井近くについていた。トイレをどうするのか尋ねると、扉を内側からドンドン叩けという。やることもないので早々に寝ることにした。うとうとしていると、先ほどの取調官が扉の小窓から顔をのぞかせ、スマホのパスワードを教えろと言ってきた。看守と二度手間になったが素直に伝えた。
1月21日
11:30前後
朝まだ暗いうちにアザーンで目が覚めたが、寒いので布団をかぶったままでいた。前日もらったペットボトルの水を口にしたが、さすがに腹が減ってきた。食料は必要なら言ってくれと言っていたが、要求してもスナック程度しか支給されなかったのではないかと思う。
セーターを着た中年の男が部屋に入ってきて「空港まで誰か送ってくれる人はいるのか、タクシー呼ぶか」などと聞いてきた。もう少しでここから出られますとか、間もなく拘束を解きますなどという言葉はないが、自由の身になるのは近いと感じた。しかし、時間と場所を聞くと「今11:30。ここはサイダだ」というので、飛行機に間に合わないのではないかと思った。その後、数回やってきて「空港の前にホテルに寄るか」「宿はサイダやスールじゃなくてベイルートなのか」などと尋ねた。「タクシーは25ドルだ」とも伝えてきた。
一度、1階に移動し、指紋や虹彩、顔写真をとり、再び2階の独房に戻った。
~13:00
独房で待っていると「あと10分すると日本の領事と話してもらって空港に行きます」と言ってきた。案の定10分ではなくて30分くらいかかった。1階の部屋に下りると、他に普段着の壮年が2人おり、朝からのセーターの男が電話をかけた。受話器の向こうはベイルート日本大使館の領事警備班の担当官。数分間話をし、電話を終えると、飛行機の出発までもう時間がない。アラビア語の書類に何が書いてあるかわからなかったが尋ねずに署名した。所持品の返却もあれだけ細かく確認していたのだから間違いないと判断し「信用します」と言って受け取りのサインをした。パスポートも返却され、21時間ぶりに拘束を解かれた。
タクシーが動き出すと同時に、スマホで自分の位置を確認すると、サイダの東の地点(33°33'09.0"N 35°23'00.4"E)だった。タクシーが施設を出るとき、兵士が出入口のポールの上げ下げをしていたので、やはり軍関係の拘留施設かもしれないと思い直した。スマホをチェックすると、明らかに写真を見た形跡があったが、難民キャンプ内で撮った計4枚の写真は消去されることなく残っていた。
ベイルートのホテルで大急ぎで自分の荷物をまとめ、空港にたどり着いた。チェックインカウンターで「あと数分で閉じるところでした」と言われた。出国審査も特に変わったことなく、無事機上の人となった。
まとめ
個人的には写真を消去し厳重注意を受ければそれで済むレベルかと思ったが、昨年10月以降の戦争状態の中で予想以上の結果を招くこととなった。幸い前科者にはならずに済んだが、私の逮捕歴、前歴は当局の書類もしくは電子記録のどこかに残ったはずである。再び渡航する機会があった場合、どのような不利益を被るかなどについて知りたいところだが、確認する時間はなかった。
その後、パレスチナにおける混迷の度は深まり、余波は広がる一方である。日本外務省もレバノン全土をレベル4の退避勧告に引き上げた。
レバノンへの訪問者を待ち受けているのは、ここに記したよりも不測で深刻な事態である。