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猫飼いの愛情/急性形態変性症候群(マーメイドシンドローム)・5
朝六時になると、自動給餌器のタイマーが作動してドライフードが補充される音がする。実際には器械にはもうなにも残っていないから、床の上に山になったそれを、その家で飼われている猫は当たり前のこととして食べる。水はキッチンの水栓を操作することをいつのまにか覚えてしまったようだった。
部屋には誰もいないがときどきモーターの音がしてカメラが部屋の中をひと覗きする。「○○ー」と飼い猫を呼ぶ声も聞こえる。が、猫は全く反応しない。機械的に呼ばれてもそれは飼い主でないからだ。
飼い主が部屋からいなくなってだいぶ経つ。何も言わずにいなくなるのはこれが初めてだ。あんなに一緒にいてくれたのにどうしたのだろう、と猫は思う。何かとんでもないことが起きたのかもしれない。カイヌシは真面目だからな。
「にゃあ」
声を出すとモーターオンと共にカメラが自分を向く。にゃあん。早く帰ってきて。
猫が毎日食べる餌は不思議と途切れることはない。いつからか誰かが床の上に山のように補充してくれたようだった。誰もいないのに、どこからこの餌はやってくるのだろう。すこし考えるが、すぐにやめて丸くなって眠る。目が覚めたらカイヌシが帰ってきていますように。
そもそも餌が床に山積みというのもおかしい。本来なら自動給餌器に補充をするのがふつうだ。だが、何ヶ月もその形跡がない。猫を呼ぶ機械的な音も本来ならネットワーク越しに人が声をかけて初めて発生する。
キッチンには食べたまま洗わずに置かれた器、休みの日に干して畳みかけていた洗濯物。テレビはうるさかったのか猫が器用にリモコンを操作して消してしまった。ときどき寂しくなるとつける。
明かりは猫が動くとついて、眠ると消える。カーテンは時間になると開き、時間になると閉まる。差し込んでくる光はなにも変わらず、猫はただ飼い主の帰りを待ち続ける。それは人間の営みにも似て、何が起きても誰もが気づかないかもしれなかった。
にゃあん。
猫は飼い主を呼ぶ。撫でてほしいなあ。へんなオモチャで遊んでほしい。カイヌシ、早く帰ってきて。猫は水栓を操作して水を飲む。イタズラは飼い主が帰ってくるまでの我慢だ。
◇
猫が不意につけたテレビからニュースが流れてくる。今日も急性形態変性症候群の話題にさらりと触れられる。
あるときから、突然人体が別の物質になるという現象が見られるようになった。始めはセンセーショナルな報道がなされたが、今は淡々と発見された数と累計が告げられて終わりだ。予防策もまだ見つからないため、発症に怯える人たちはいるものの、ほとんどの人たちはあきらめと共にふだんどおりの生活を送るようになった。
変化するものはさまざまで、石やガラス、木材やコンクリートといったものから、一見して食べ物と間違えるようなものまでさまざまだった。形態が変化したあとも意識が残っているのかどうかはわからない。研究はなされているが、意識があったとしても意思疎通が図られないため、どうすることもできないというのが実情のようでもあった。
猫はテレビには興味がなかったらしく、すこし離れたところで丸まって眠ってしまったようだった。
ざらりと音がして床の上の餌は山がすこし崩れた。
急性形態変性症候群のニュースの途中でぶつり、とテレビが消える。それは猫にそのことを知らせたくないかのようだった。
◇
規則正しい、猫だけの生活になってどれくらいたっただろうか、床の上に山になっていた餌も残り少なくなり、猫も眠っていることが多くなった。飼い主はいっこうに帰ってくる気配がない。自分のことを忘れてしまったのだろうか、猫はそんなことを思う。脱ぎ散らかした服の上に丸くなる。匂いはもうとうの昔に消えてしまったが、それでも服の上に寝ころぶと飼い主との日々を思い出すような、そんな気がしていた。カイヌシ。はやくねこにあいにきて。
にゃあ。
ひと声鳴くと、それきり動かなくなった。いつの間にか猫の姿はなく、花がそこに咲いていた。
◇
……荷物が玄関に山積みになっていると通報がありました。玄関には定期購入と見られるペットフードが数ヶ月前から放置されており、警察と消防、管理会社が中に入ったところ、○○さんの姿はなく、○○さんのものと見られる衣類の周りにペットフードのようなものが少量落ちているのが発見されました。
○○さんは急性形態変性症候群を発症したものと見られ、消防で確認を急いでいます。現場は駅から近いマンションの一室で、○○さんは猫を買っていたとの情報もありますが、姿は見当たらなかったとのことです。
続いてのニュースです……
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