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硝子様形態変性症/急性形態変性症候群(マーメイドシンドローム)・2

 なんの前触れもなく突然起こる、人体の形態変化は世界中で見られ、一時はパニックを起こすこともあったが、いつの間にか「しかたのないこと」と受け止める人が多くなってしまった。
 とはいえ、中には溺愛する家族がそうなってしまい、現実を受け止められない人も当然だがいた。

 彼の母がそうだった。
 ただでさえ直接会うか電話するしか彼とコンタクトを取る手段がないのに、取り次ぐどころか話を聞きもしないで遮断してしまうのだ。箱入りだからね。周りには揶揄され、本人も誰とも言葉を交わそうとしなかった。彼とは小さな頃から知っていた自分は、当然母親からは敵視され、なにかとひどい言葉を投げつけられていた。

「あの人、僕より長生きするつもりでいるからね、もうどうしようもないよ」
 その日も帰宅するぎりぎりまで課題をこなしながら表情を変えずに言うその言葉は、もしかしたらもう諦めてしまったのかもしれなかった。

……さんは……歳、自宅近くの……校に通う学生の姿が見えなくなったと、……日夕方、警察に通報がありました。関係者の調査によりますと、……さんは学校から帰宅後、進路について母親と口論になった際に姿が突然ガラス状の物体に変わってしまったということです。現場に駆けつけた警察と消防は状況から……さんは急性形態変性症候群を発症したとみています。現場は……

 彼が人の形ではなくなったと人づてに聞いたのは、彼が姿を見せなくなってから数日後のことだ。なぜか驚きはしなかった。ああ、自由になったんだ、と思った。
 学校でも、はじめはどこか茶化しているような、通常ではあり得ない状況を信用していないような雰囲気だった。自分だってその場にいたわけではないからただ否定するしかなかったのだが、「そんなことあり得ない」と主張する奴らとケンカに何度もなった。

 真偽を確かめたくて彼の家まで行ってはみたけれど、ガラスの破片になってしまったという彼に結局会うことはなかった。インターホン越しに酷く罵られた。あの人自分を敵視してたからな。
 こんなことになったのはあんたのせいだろ、と言いかけて、それは彼は望んではいないだろうと思い、やめた。罵ったところでどうにかなるわけでもない。たぶん本当は誰も悪くはない。はずだ。

 母親はあの日以来、誰にも一片も渡すものかと部屋に立て籠っているそうだ。集めたガラス片を溶かして固めようとしたらしい。ただ、そうすれば何かにはなるだろうが万が一にでも元に戻ることはなくなると言われ、絶望した母親はそのまま彼の部屋から出てこなくなったのだ。
 自分はというと、彼に貸していた本を返してもらうことと、彼から借りていた本を読む返す術がなくなっていた。貸していた本はもう戻ってこなくても別によかったが、借りている本を返せないのはなんだか落ち着かなかった。これだって彼の一部と言えなくもない。
 罵られることを承知の上で、家まで持っていこうかとも思ったが、頭ではわかっていても、どうしても彼の家に向かう気にはなれなかった。

 ある日、彼の妹が訪ねてきた。彼女は母親の非礼を詫び、彼に貸していた本とガラス片を渡してくれた。知らない人が見たら炭酸飲料のガラス瓶と見間違えるような、薄青い透明な欠片だった。
「兄が好きだった人に持っててほしくて」
 彼女は自分には直接触れないように、広げた手のひらに無造作に置いた。自分が貸した本にメモが挿んであり、それを見てここに来たのだという。連絡先のメモを渡すようなことをした覚えはないのだが、どういうことだろう。
 本に挿まれたメモは丁寧な字で誰に、いつ、どういう経緯で借りたか、返すときになにを伝えるのかまで書かれていた。
 同じようなことが何度もあって、今でも借りたままの本が家のあちこちに置いてあるのだという。彼女は暇を見つけてはもとの持ち主に返していたのだそうだ。
「母は」
 伏せた顔が一瞬だけ上を向く。
「おかしくなったようで、兄が全部自分だけのものになったと言っています」
 そうはさせるかって思いますよね。私、あの人が嫌いなので。誰に向けて言っているのかわからないくらいの声は、なんとなく笑っているようにも聞こえた。
 形態が変性したものが一欠片でも欠けていれば戻る可能性は万に一つもなくなってしまう。それを知っていてここに持ってきたのだ。
「元にもどると思いますか?」
「不幸になるだけかもしれないね。話を聞いている限りでは」
 そう思うだろ? ガラスの破片に問うてみる。当然答えはないが、答えはたぶん変わらないだろう。

 それは君が持っていて。彼は君のことが好きだったんだよ。もし、戻す可能性があるとしたら、最後の一欠片は君が持っていなくちゃ。
 彼女にガラスの破片と借りていた本を返し、外へと送り出した。

 その日、ニュースで彼の家で大量のガラスの破片と、大量の砂が発見されたと報じていた。この家の母の姿はなく、来ていた服が砂まみれになって落ちていたそうだ。

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TOP画像はてとさんのをお借りしています。ありがとうございます。

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