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いちばん大切なもの/急性形態変性症候群・8

 だから機嫌が悪くなったからといって物を投げるのは良くない、と言われていたのだ。些細なことで注意され、それが気に食わなかったのは自分だ。近寄られることさえ嫌だったので、拒絶をするつもりでその辺にあった物を手当たり次第に投げた。いつもなら避けるか当たる前に床に落ちるか、たまにぶつかったときでも君は、謝りもしない自分に声を荒げることもなく静かに注意をしてきた。その時の君の必要以上に穏やかそうな顔が怖くて、さらに機嫌を悪くした。全て自分のせいだった。
 今日だって、出した本を片付けるように言われたことに機嫌を悪くして、持っていた本をまとめて投げたのだ。よりにもよって君がいちばん大切にしていた本を。
 鈍い音がして当たったかと思ったら床に落ちいつもより重い音が聞こえた。
 いつもならため息をひとつ吐いて本を拾うと「何度言ったら」と静かに言うだろう。そう、それが日常だった。だが、今日はそうではなかった。そうならなかった。本が床に落ちたとき、投げた方向を見ると、そこには人ではなく割れた陶器があった。いつも見る姿に似た人の形をした陶器のようなもの。それが本がぶつかった反動で倒れ、割れ、バラバラになっていた。
 意味がわからなかった。タチの悪い冗談で自分を叱ろうとしたのだと思い、君の名前を呼んだ。返事はなかった。手品のトリックにしては手が混みすぎている。こんな大きな物を隠しておくような場所はない。さっきまでここにいたのに。本当に今の今まで言葉を交わしていたのに。
「ねえ、どこにいったの。癇癪を起こしたこっちが悪いんだから、謝るから出てきてよ。ねえ」
 自分でも驚くくらいに大きな声が出て、家の中に自分以外の誰もいないことを証明しているみたいだった。
 割れた陶器が、なにもしていないのに揺れたような気がした。まさかと思ったが、破片を集め、そっと組み直してみた。細かいところが欠けたままになっているけれど、それは粉々になった部分だろう。
 よく似ているけれど、そのものではない、君の形をしているとも言えなくもないような人形。
 どうしてこんなことになったのかわからない。自分の気が違えてしまったのかもしれないと思った。このままパニックに陥ったら、昔見た漫画の、気に入らない人を消すスイッチの話のように君がどこからか現れて自分を諭してくれるのだろうか。冷静に考えようとすればするほど、普通ではないことばかり思いついた。
 投げつけた本を元あった場所に戻す。陶器の人形……のような、そうだったもの……のそばにぺたりと座る。
「これ、人を殺したことになっちゃうのかな」
 ひとりごとにもならないような声。だけど、こんなのを見て誰が信じるだろう。

 室内に差す太陽が翳ってよく見えなくなる頃、ようやく思いつくところに連絡をした。なにもしないで座っていた時間と、電話をしてから人が来るまでの時間を比べたら今のほうが確実に短いはずなのに家の呼び鈴が鳴るまでの時間は本当に長く感じた。
 調べてもらったらこれは急性形態変性症候群という病気のようなものになってしまった結果だという。これは人体が別の物質になるという病気というか現象らしく、原因も対処方法もわからないのだそうだ。ある日突然、なんの前触れもなくなってしまうので、自分の時のようなことがあるのだそうだ。だから恐ろしくタイミングが合ってしまったが自分は悪くないと言われたが、すぐに納得できるわけがない。自分は人を殺してしまったのだ、という言葉が頭の中を占めてしまう。
 床の上のかけらを集める。そんなことをしてもどうにもならないのだというが、こうでもしないと自分の気が収まらなかった。なにかのはずみで戻った時に欠けがあっても困るだろう。掃除機で吸うなんていう雑な扱いはしたくはなかったので、指で一つ一つ摘んでいった。ピリリとした痛み。指の腹から血が出ていた。かけらで指を切ってしまったらしい。なにもしなければ気にはならないけれど、なにかを押さえたり摘んだりする度に痛いのがわかる。これ、しばらくかかるやつだ。
 君はなにも言わない代わりにこうして自分がしてしまったことを責めるのだろう。わかってるよ。自分が癇癪を起こさなければこんなことにならなかったかもしれない。それだけのことなんだ。

 夜遅く、さっきとは違う人たちが来て、陶器に変わってしまった君を全て回収してどこかへ持っていってしまった。なにかお悔やみの言葉のようなものを投げかけられたが、なに一つ頭には入ってこなかった。
 自分以外の誰もいなくなった部屋で、君がいちばん大切にしていた本を広げる。本当はなにもする気力がない。文字も図版もやはりなにも頭に入ってこなくて、少しずつ視界がぼやけてくるのがわかる。それが眠気なのか違うのかの判別もつかなかった。目を閉じる。少し眠ったほうがいいのかもしれない。悪い夢だといいのに。このまま自分もなにかに変わればいいのに。ごめんなさい。大事なもの投げたりしてごめんなさい。言い忘れていたことを思い出して、声に出した。
 ばさばさと本が床に崩れ落ちた。手に持っていた本がどれだったのか、きっと今この状況を見た人はわからないだろう。ああ、自分は本になってしまったのだ、とわかった瞬間、意識が途切れた。


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