傘
昼休みをすぎるころ、雨は降り出した。
ここのところ外れてばかりの天気予報だったが、今日に限っては予報のとおりだった。
朝方はきれいに晴れていたので、油断をして傘を持ってこなかったやつが多かったようだ。教室では「マジかよー」「傘持ってきてないんだけど」という声があちこちから聞こえてきた。
ウエノはカバンの底に折りたたみの傘が入っているのを確認して、安心した。昨日か一昨日の自分に感謝しないと。
先生の声に雨の音が混ざると眠くなるのはどうしてだろう。ただでさえ眠い午後の授業はいつも以上に退屈で、気がつくと何人かはうたた寝をしているようだった。
教室の様子を見るように、視線を動かすとホンダと目があった。カサモッテキテル? 口がそう動いていたように見えた。傘?
ホンダはウエノのほうに指を向け、傘をさすような仕草をして、親指と人差指で丸を作った。持ってるよ。ウエノも同じようにして指で丸を作って合図をする。
でも、とウエノは黒板の方に向き直る。貸してあげたいのはやまやまなんだけど、一本しか持ってないんだけどなあ。
直接聞きに来ればいいのに、授業中のゼスチャーゲームのようなあれ以来、ホンダはなにも言ってこなかった。傘のあてでもあったんだろうか。
教室にはどこから持ってきたのかわからない、持ち主不明の傘が何本かあるけれど、今日みたいな日はあっという間になくなる。そうでなくてもその辺においてあれば勝手に持っていったりするやつが多い。ほとんどは自分のものは自分で管理していた。だからなにも言ってこないということは、拾えたかなにかだったんだろうか。ウエノはそんなふうに理解した。
「おそいよ、ずっと待ってたんだぞ」
放課後、部活を終えて玄関に向かうと、ホンダはもう帰り支度をして玄関にいた。いた、というか、ウエノが来るのを待っていたようだった。
「ごめん」
「傘持ってるだろ、途中まで入れてってよ」
なにがどうごめんなのかよくわからなかったけれど、ようするにホンダはウエノの傘に入れてほしかったようだった。あんなに降るなんて誰も思ってないよなあ。ホンダの声が玄関に響く。
ホンダとこんなふうにして歩くのはたぶん初めてだ。まともに話すこともないのに、どうしてこんなことになったんだろう。
会話の糸口が見つからないで黙っていた。ポケットからケータイを出して画面を見た。昼休みに聞いていた音楽のジャケットが表示されていた。
「あれ、ウエノもこれ聞くんだ」
ホンダは嬉しそうにあの曲はいいとか、この前のコンサートに行ったらびっくりしたとか、そういう話をしてくれた。ウエノは自分の好きなものを好きな人が他にいるということを、初めて実感したような気がした。
「今度さ、ライブDVD 貸してやるよ」
「いいの?」
雨に逆らうように走って追い越そうとしたホンダと同じ部活のやつが、傘を借りているホンダを見てうらやましかったらしく、何人も声をかけてきた。
「ホンダ、ずるいなお前ばっか」
「いーだろー。ウエノちゃんやさしいからな」
妙に自慢げに話すので、恥ずかしくなって、傘を押しつけてこの場からいなくなってしまいたかった。
「この前もそうだったたじゃん」
「いつも同じやつばっかだと悪いだろ」
そういえばいつだったか、帰りがけに降った雨のときには自分もずぶ濡れになって帰ったんだった。ホンダは今日みたいにちゃっかり誰かの傘に入れてもらったのだろう。
別に誰でも良かったんじゃないか。たったそれだけのことに気づくのに時間はかからなかった。
そしてどうしてそういうふうに思ったのかわからないけれど、なにかをホンダに期待していた自分のことも。
必要なのは傘で、自分のことじゃない。それはわかってたことだ。たまたま一緒になったとはいえ、自分と二人だけのときにはそれほど進まなかった会話が進んでいて、この中に自分がいるってそれはどうなんだろう。
「ウエノちゃん困ってんじゃん」
「マジ?」
この場から離れるなら、あの交差点しかない。じゃれている彼らの傍らで、ホンダが濡れないようにしていたウエノは傘をホンダに押しつけた。
「困ってないけど、もううちすぐそこだから、これ明日返して」
そう言って、点滅してる横断歩道を走って渡った。どうにか笑った顔を作って、手を上げた。
ざわついているような気もしたけれど、多分いつもどおり、気のせいだろう。なにか起きたとしたら、悪いのはいつも自分だ。
交差点からそれほど距離はないはずなのに、家につく頃にはすっかり濡れてしまった。傘持っていかなかったの、という親の声は曖昧に返事した。
着替えて、頭を乾かしているときに、ケータイが通知を知らせたように見えた。
[さっきはごめん]
ホンダからのメッセージだった。なんで自分の知ってるんだっけ。一瞬そう思ったけれど、すぐにさっき教えたことを思い出した。
既読にしたほうがいいのか迷った。
[傘返しに行くから家教えて。ライブDVDもついてに持ってく]
明日でいいのに。まだ既読にできないで画面を見るだけだった。