人魚と王子(後編) /急性形態変性症候群・10-2

(前編からの続き)

「あんたも大変ねえ。あんな化け物に住まわれてたなんて」
 遠縁の親戚が自分を見て、さも気持ち悪いとでも言わんばかりの顔をして言った言葉が頭に残る。
 急性形態変性症候群にかかった人の家族を忌み嫌う人・地域が存在する、ということは何度も聞いた。家族の人は言うまでもなく、なんの関係もないのに苗字が同じというだけで差別され引っ越しを余儀なくされた人もいたそうだ。
 自分だってそうだ。今まで住んでいた家にはもう住めなくなったと、勝手に引き払うことになってしまっていて、なにがどうなっていたのか、自分にはわからないままだった。
 自分の場合、たまたま元に戻ったからあからさまな言葉をかけられることも多くはなかったが、それでも病室の外からは配慮なんかこれっぽっちもない言葉がなだれ込んでくることはあった。
 おそらく見舞いに来た誰かが話をしているのだろう、ということは推察できるので、こいつら石ころにでもなればいいのに、と思ったりもした。

 退院し、ようやく普段の生活に戻ろうといたとき、たまたま入った本屋でずっと探していた資料の横に症例集のようなものを見つけた。専門家が使う資料なのだろう、発行された号数のわりには一度も見かけたことのない本で、ただ特集が急性形態変性症候群であるという点だけで山積にされていた。
 下世話な雑誌よりは本当のことを書いてあるだろうと手に取って読んでみた。正直なところ、どれも悲惨すぎてとてもまともに読めなかったのだが、ひとつだけ、やけに自分と境遇が似ている症例を見つけた。

患者のつま先から全身にかけて泡状の形態変性が起こるも、途中で変性が止まっており、原因は不明。同居する家族はナイフによる自死。自らの血を患者の患部に塗布しており、死亡時に同居家族は人魚様の形態をしていた。これが急性形態変性症候群にあたるかも不明。

 そんな人が他にもいたのか。最初はそう考えたのだが、症例に書かれている都道府県、市町村が一致している。この場所ではまだそんなにヒトじゃなくなった人はいなかったはずだ。だとしたら。
 症例集を置いて、探していたほうの本を手に取った。まるで頭に入って来ず、また症例集を手に取る。何度か同じことを繰り返して、買うつもりもなかったが結局買ってしまった。

 入院前にいた家まで行ってみた。入れると思っていなかったが、案外スムーズに家の前までは来ることができた。
 荷物はすべて持ってきたらしいが、今の家には恋人のものはなにひとつなかった。むこうの家族が引き取ったと言うが、身寄りはないと恋人が言うのでどちらが本当のことなのかわからなかった。
 隠し持っていた鍵を使って、中に入った。締め切った部屋のよどんだ空気が気持ち悪いくらい暑くて、息苦しさも感じた。表からは見えない位置にある窓を開けた。入ってくる風が心なしか涼しい。
 自分が倒れていた辺りに座ってみた。目の前の壁には本棚が三つ置いてあって、ふたりで読む本がぱんぱんに詰まっていた。それらも今の家には全部はなかった。なにを思って選別したのか、あるいは症例集に書いてあったように血まみれで倒れていてそのせいで本が手元に置いておけるような状態ではなかったのか、わからなかった。持っているもの全部覚えているつもりだったが、案外覚えていないもんだなと思うしかなかった。

 部屋には二人が住んでいた形跡がまるで残っていなかった。あたりまえといえばあたりまえだ。あんなことがあったあとだからだろう、次の住人も決まってはいなかった(だから持っていた鍵で入れたわけだが)。それでもくまなく探した。ふたりがここに住んでいた跡を、恋人が確かに存在したという証拠をどこかに見つけたかった。
 浴室の排水口をなにげなく開けた。ゴミでも引っかかっていれば御の字と思っていた。
 そこにはなくしたと散々騒いでいた、自分が恋人にあげたネックレスがあった。
「なんだここにあったんだ」
 何度もここを探したのに見落としたのか、その後にここに引っかかったのか、それはわからないけれど、ともかく細い鎖にサイズが合わなくてはめることができなかった指輪がついていた。自分のぶんはなくすと困るから財布に入れてあった。それを出すと鎖に通した。自分の首には少し短いようで、うまく止まらなかった。また財布に戻した。排水口にまだなにかないかよく見た。大きな鱗のようなものが何枚かあった。
 それは薄いガラスのようにも見え、つまんで灯にかざすと何色かにぼんやりと分かれて光った。いつも長風呂が好きで、自分には冷たいくらいの温度でないとダメと言っていた恋人。頑に肌を見せようとしなかったのはそういうことだったのかと急にわかってしまった。

 ああ。

 王子を殺してその血を自分の足に塗れば人魚の姿に戻れる、と、姉たちは言ったのだ。それを拒んで人魚姫は海に身投げして、泡と消えた。
 あの時恋人が何度も開いては閉じ、不安な顔をしていたのはこれのことだったのかもしれない。自分は人魚ではない。王子でもない。だが、泡と消えてしまうものを止めるには、愛した人の血が必要だったのだろう。
「全然順番が違うよ」
 まだそれが真実とわかったわけでもないのに、胸の真ん中がギュッと苦しくなって、眼球が水分で埋まっていくのがわかった。恋人の前では泣かないといつからか決めていたのに、初めて泣いてしまった。実体のない、これが体の一部かもわからないものを見つけただけなのに。
 鼻水をすすりながら、鱗のようなものを全部拾い集めるとそれも財布にしまった。こんなところを見られたら、きっと派手に笑われるだろう。恋人が好きだったのは強い自分なのだ。

 帰宅途中の電車のモニタに映るニュースで、遠縁の親戚が住むあたりで発症者が出たということを知った。ほぼ同時に母から「叔母さん、砂になったって」とメールが来たことに気づいた。砂かけババアかよ、と笑いそうになったが、それではあからさまな言葉をかける人々と変わらないなと思って我慢した。足の裏のふわふわした感覚はいつのまにかなくなっていた。

 家に着くと、一番日が当たりそうな場所にあの鱗のような破片を並べた。なんのはずみか、指先を切ったらしく血が滲んできた。舌先で舐めとってから反対の手で押さえた。今のこの指先で恋人を撫でたら、死なずにすんだのかもしれない。今さらどうしようもないことを思ってまた泣きそうになった。
 無造作に置かれた段ボールの中から、少しずつ片づけをした。ずいぶん乱暴に詰められたらしく、使い物にならないものもかなりある。食器はあらかた割れ、服もシワのことなど何一つ考えてはなかった。まさかヒトでなくなりかけたモノが生きて返ってくるなんて誰も思ってなかったのだろう。シワだらけのスーツを備えつけのクローゼットにかけ、仕事に行くまでになんとかしないとなとため息をついた。

 脚の痣はまだ残っていた。知らない人に見られて不快になるのも嫌なので早く消えてほしいと思ったが、恋人が残してくれた跡と思えばそのままでいてほしい気もした。
 何が原因でこんなことになったのか、おそらくは誰もわからないだろう。陰謀論を唱えている人たちも当然いて、そういう人ほどヒトの形でなくなることが多いという、これも根拠のないウワサが立っていた。分断を煽るだけで良いことはひとつもなく、別に自分にはどっちでも良かった。自分はたまたま元に戻った、それだけのことだった。

 箱を開けていくと、なくなったと思った本が出てきた。本当に適当に詰めたんだな、と呆れながら棚に詰めていった。人魚姫の絵本が出てきた。ああ、これは恋人が好きな本だったと中を広げて見た。
 王子も人魚もドラえもんに叱られてハッピーエンドにさせられちゃうんだよ、と言ったことがあるのを思い出した。恋人はこの二人にも伝えなきゃ、と言っているようにも見えたが、もちろんそんなことできるはずもなかった。

 そう、思っていた。

 最後のほうに紙が貼られていて、そこにはたどたどしい字で
I helped you. たすけたのはわたし
I love you. だいすき
と書いてあった。恋人らしい、でもそういうことじゃないんだよなあ、と苦笑いしたつもりだったが、また涙が出てきた。泣くしかなかった。

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