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「ゆびさきと恋々」の世界を彩る演出の力
いきなりですが、断言します。現在放送中のTVアニメーションの中で最も
映像演出が優れている作品が今回の記事で取り扱う「ゆびさきと恋々」です。間違いありません。
と、大見得を切りましたが、正直、「少女漫画原作のTVアニメに興味は無いな。」と。放送前はかなり期待値が低く、「食わず嫌いは良くないから1話くらいは見てやるか。富野監督も好きな系統の作品だけでなく、色んなものを観ろ!と仰っていたし。」と。いざ1話を観る直前になってもこんな気持ちでした。しかし、1話を視聴して、私の認識が間違っていたことに気が付くと同時に申し訳ない思いでいっぱいになりました。
初めにこの作品に関わった人達全てに謝っておきます。ごめんなさい。
はい。懺悔が済みましたので、本文に入っていきたいのですが、その前にTVアニメをご覧になっているすべての人へずっと疑問に思っていたことがあるのですが。
アニメーションにおける"演出"とはどういうものか皆さん理解してますか?
X(旧Twitter)やnoteに投稿されているアニメ感想文やyoutubeで散見される考察動画の中に「○○の演出は神!!!」のような表現をよく見かけますが、その言葉適切ですか?
所謂、エモいと呼ばれるシーンや感動するシーン、かっこいいシーンを観ると、脊髄反射的に「この演出、神!!!」と思い、興奮のあまり勢いよく、X(旧Twitter)やnoteに文章を、youtubeに動画を思いのまま投稿している人が多いと思うのですが、
その認識間違ってます。特にアニメーションにおいては。
演出って、興奮するシーン全てに当てはまるような便利な言葉ではないです。まずはその認識を改めてください。ちゃんと意味があります。
いいですね。(強調)
では認識を改めて頂けたと思うので、詳しくアニメーションにおける演出について書いていきます。
アニメーションの演出とは?
先に答えを言います。
演出とは、動くものに意味を与え、それを利用してシーンをより良く見せることです。
ここで勘違いしてはいけないのが、動くもの=キャラクターの演技ではない
ということです。勿論、台詞のことでもありません。
また、生物的な動きをしている=動くものという意味でもないです。
正しい解釈は、動くもの=画面に映っているもの全てです。
なぜなら、そもそもアニメーションとは、ひとこまひとこまの画面を描き、それを連続撮影してつくったものだからです。
くどいですが大事なことなので念押しして言いますが、アニメーションにおいて、画面の中に一つとして動かないものはありません。
例えそれが、キャラクターの後ろに背景として立っている木だとしても動くものの一つです。
「街の風景、街灯がそこに立っている意味、つまりは物事の形が持っている意味は、なんとなくではありません。“それを意識する・考える”ということを高畑さんに教えられました。何より、ガンダム以降、僕は作品作りにおいてハッキリとそういう気を付け方をするようになったんです。これは高畑さんの影響だと認めざるをえません」(富野氏)
機動戦士ガンダムの生みの親 富野由悠季監督がスタジオジブリに所属しておられた 故人 高畑勲監督に教わった高畑勲イズムについてのインタビュー記事を引用しましたが、演出とは?の具体的な説明はこの引用で理解していただけるはずです。
はい。これで、アニメーションにおける演出とは何か?
なんとなく理解できましたよね?
いや、まだ理解できないですよね。
であれば、ようやく本題である「ゆびさきと恋々」を例として、私がどのようにアニメーションを観ているかを感じて頂きましょう。
「ゆびさきと恋々」を知らない人へ
本当は、各種動画配信サービスで今すぐ視聴して頂きたいのですが、
後の内容に差し支えるので、あらすじを添付します。
『ゆびさきと恋々』
あらすじ
耳の聞こえない女子大生糸瀬 雪は、困っているところを同じ大学の先輩である波岐 逸臣に助けてもらう。耳の聞こえない雪にも動じることなく接してくれた彼に、少しづつ惹かれていく。
「ゆびさきと恋々」の巧みな演出
初めに、説明しておきますが、この作品は、主人公の耳が聞こえない設定なので雪はモノローグでの台詞しかないです。
それに伴い、1話の冒頭から、環境音やヒソヒソ声などの周りの音は主人公のモノローグが入る際、消えています。勿論、耳の聞こえない雪の境遇を強調するためですが、その強調が一設定だけでなく、他のシーンの演出にも活かされているので重要な設定だと覚えておいてください。
1話 体の向きと電車の中と外、そして照明
駅に着いた後、逸臣が雪にこの駅で降りるか尋ねた後、雪の頭をポンと触り、「じゃあな。」と言うシーン。
注目すべきは、二人の体の向き。電車を降りる逸臣は当然、出口の向きで、一方、雪は逆方向を向いている。
一見、頭を触られた後、雪が逸臣の方向へ振り返るシーンのための体の向きのように思えるが、それだけではない。
その答えが分かるのが、そのシーンの後、逸臣が電車を降りると直ぐに、電車が駅に着いたことを知らせる入線メロディーが強めに流れ、逸臣が振り返えると「また。」という口の動きをして、それを見た瞬間、雪の目の前の扉が閉まる。無論、この扉が閉まるタイミングは雪の「もっと、会話したかったのに。」という逸臣への興味を後に引っ張るための演出だが、駅から降りた独りぼっちの逸臣を俯瞰で捉えたシーンと雪が電車の中で窓を眺めているシーンを交互に入れることで、二人の体の向きと電車の中と外の意味合いの違いが分かってくる。
つまり、逸臣が駅で独りぼっちなのは、雪は逸臣のことしか見えていなかったことへの暗示であり、自分と逸臣は別世界の住人(容姿が優れていて、耳が聞こえて、英語が話せる。)だと考える雪の気持ちを示唆するものにもなっている。そして、電車の扉を境に自分と逸臣の世界は別であることを電車を降りた逸臣と走り続けて逸臣との距離が離れていく雪の両方を見せることで住む世界の違いを強調する演出となっている。
また、「私の世界、生まれつき音が音じゃない世界。この振動が自分の中から起きているものだと、電車を降りてから気づいた。」と雪がモノローグで語ることで、別世界の住人と自分が同じ空間に存在していた夢のような時間が逸臣と離れることで終わり、少し冷静になったもののその時間の余韻である心臓の鼓動が止まらない雪の気持ちを表す大事な台詞の前に電車の中と外の演出を仕込むことで台詞だけの表面的なものでなく、重層的な解釈を可能にしている。
その1シーンのみの意味合いではなく、その後のシーンにも影響を及ぼす、倒置法のような演出が非常に巧みであり、それだけに留まらず、この電車の中と外の演出は、1話最後のシーンにも活かされている。
雪が友達のりんと逸臣のバイト先に訪れた後、家の近くまで逸臣に送ってもらう途中、耳が聞こえないため、後ろから来るバイクに気付かない雪を守ったあと、危険を感じた逸臣が雪の手を引っ張りながら、歩くシーン。
言わずもがな、主人公の名前が”雪”なので、このシーンで空から降っている雪(天気のほう)には意味がある。それを証拠に逸臣の引っ張る手がクローズアップされた際、逸臣の服の袖口に雪が少し付着している。
それに気付いた”雪”は「自分の思いが雪となって逸臣に浸食して伝わってしまうのではないか。」とモノローグで語る。原作漫画を確認したが、このシーンのままだったので、森下suu先生にも演出の心得があることが伺える。
それはさておき、家の近くまで着いた二人は連絡先の交換をした後、
別れることになるのだが、ここでリフレインとして雪と逸臣の体の向きがまた反対になる。ここでの体の向きの意味も別世界の住人である逸臣と雪の距離感を強調するものだが、それだけでなく、二人の物理的な距離の間に照明の光が丁度真ん中を指している。これも、演出の一つである。
それが分かるのが、この先のシーン。電車の時と同じく二人は背を向け合ったままだが雪は勇気を出して、「世界は広いですか?」と問う。
「すげぇ広い。」と返す逸臣は、続けて「俺を雪の世界に入れて。」と送る。その言葉の後、互いが互いの方向へ振り返えって雪が腕を使って大きく○を作ったことで辺り一面に明かりが煌めく。(このシーンを観てリアリティが無いと言う人は演出を読み解く才能が無いと思ってください。そもそも、フィクションなのですからリアリティが絶対ではありません。それが演出です。)
このシーンは前述した体の向きの意味合いが自分の世界と別世界との境であるという意味合いの答え合わせであると同時に照明の当たらない二人の位置が距離や空間を超えて繋がったことを明かりの煌めきで表現することで互いの世界の境目が無くなり、別れていたはずの二人の世界が一つに繋がったことを表すための演出である。
見逃しがちですが、「世界は広いですか?」と雪がメッセージを飛ばすシーンの前に互いが背を向けたままスマホを見ていて、二人の位置と照明の位置そして明かりの位置が分かる俯瞰のカットが一瞬差し込まれる。この1カットがあるだけで、まだ互いの世界が繋がってないことを示すと共に、何か二人の距離感に変化があるではないか、照明の明かりに何か意味が込められているのではないかと想起させることが出来る。つまり、ヒントを視聴者に与えているシーンなっているんです。
このヒントを出す(伏線)と演出を施す(回収)をかなり短い時間の中で、それも物凄くさり気なく行っている。
何度か見直さなければ、気づかないような細かい演出の数々に驚嘆します。
村野佑太監督の絵コンテ。素晴らしい。
終わりに
最後に言っておくべきことがあります。それは、今まで説明してきた演出の読み解きは全て私の妄想であることです。
「なんだ妄想かよ。」と思ったそこのあなた。まずいですよ。
「何にでも答えがあるはずだ。正解がないものなんてこの世に存在しない。作者の意図が正解でそれ以外は妄想だ。」なんて思っているなら、
あなたは正解主義に陥っています。
妄想でいいんです。そもそも、演出の読み解きに正解なんて存在しません。
「そういう風に見えました。」という自分なりの読み解きを視聴者に創造させることがアニメーション演出の仕事なんです。
おそらく、作り手の意図を超えた解釈があったと思います。
でも、私はそれを気にしません。むしろ、「こんな解釈もできるんだぞ。」と誇っています。
ですがそれを良しとしない人が正解主義から抜け出せず、考察動画、サイトの普及に一役買ってしまっているんです。
私は常々、考察の無意味さについて考えています。
考察とは、作者が持つ正解を探すゲームであって演出の読み解きとは真逆の有限なものであり、クリエイティブな思考を必要としません。よって、物語の中に散りばめられたヒントを元に答えを探すだけの非常に内側に閉じた行為なんです。
上記の記事を投稿された書評家 三宅香帆さんの記事にも書かれていることですが、現在、無限の可能性を秘めた批評は衰退し、有限である考察の時代になった。だから、庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』についてのTwitter上の回答を真に受けて、「岡田斗司夫の解釈は間違っている。嘘つきだ。信用するな。」という人が一定数存在することがこの考察の時代を象徴しています。
何度も言いますが批評や評論の解釈に正解はありませんし、作者が言っていることが必ず正解というわけではありません。それは演出の読み解きも同じです。
これは実体験を元にしたアドバイスですが、演出の読み解きに必要なのは、全てのシーンを疑うことです。
「このシーンは作者が又は登場人物が何も言ってないから意味はない。」と考える人は、はっきり言って才能0です。
「何かこのシーンには意味があるはずだ。」と思考することを習慣化しましょう。それができなければ、演出の読み解きは一生できません。
読み解きに必要な知識や教養はそれを習慣化した後でいくらでも修養できます。
「意味を考え続けること。」それが近道です。
次回予告?
私事ですが、この記事の評判が良ければ2話以降の演出についての記事も書きたいと思っています。ほんの少しでもこの記事に興味をもった方は、スキないしフォローしていただければ私の動向をチェックできますし、質問や感想はコメント欄に書き込んでもらえればできる限り返答します。(根拠もないのに、「お前の解釈は間違っている。」なんて人はお断りですが。)
後、この記事を読んだ方、誤字、脱字、言葉の使い方がおかしい等がありましたらそれもコメント欄でお教えください。修正しますので。
私のモチベーションを保つために皆さんの声援をよろしくお願いします。
それでは。