文学のことばの掬いとるもの
"表現"ということについて考えるとき、
今、わたしはあらためて、
"文学"の言葉の魅力というものを、
感じています。
"小説"という形式や、"詩"のもつ力。
"文学"をただ、フィクションとして、"実用的でないもの"という評価をする人も少なくないとおもうけれど、
その形式のなかでこそ、表現できるものもある。
また、なにを"現実"として認識するか、ということについても、実際には、100人の人間がいたならば100通りあるというのが真であるとすれば、
(コモンセンスによってある程度、秩序めいたものが与えられているにしても、
実際には自分以外の人の目で世の中というものを認識したり、たとえば自分以外の人の歩幅で道を歩くことはできないから)
フィクションとフィクションの重なり合ったところが、かろうじて"現実"なり"事実"として認識されているであろうし、
広い目でみたならば、この世自体が、フィクションということもできるとおもう。
そもそも、人は、他者の書いた文章を読むとき、言葉というもののもつ抽象性から、その意味やイメージを自分のなかにある経験なり思考方法なり、主観なりにもとづいて、"解釈"している。
だからこそ、フィクションは表現の形として豊かな可能性をもつ。
そして何より、
著者の内面に肉迫した文章ほど、面白いものはない。
それは、独白に近い形かもしれない。
"社会"のなかに生きる個人としての仮面を脱ぎ捨てた率直な文章や言葉は、
観察される対象としても、とても面白い。
商業には、必ずしも結びつかない。
でもやはり、著者がみずからの内面を見つめつづけながら紡ぎだす言葉ほど、魅力的なものはないとおもう。
しかしさらにここで、"本当のことは言葉を超えている"、
と言ってしまったら、
今日ここに書いた文章は、なんの意味もなくなってしまうのですが…(^_^)