もはや眠る必要はない

 つぐみの子守歌にはほとほと嘆息が尽きない。『就寝』、だと?  死んだのは私ではない。私の愛するひとの方である。あのひとは、あの交差点で、ただただ消えてしまったのだ。ここになにかひとつ詩歌の一句でも持ち込んでみろ、私はお前の嘴をへし折り、その舌を掴んで引き抜く準備ができている。どれほど舌足らずといっても、私にとっては取るに足るほど延ばされた舌なのだから。私はこのことを決して忘れはしない。

 死に際して看取るひとの顔を見つめ続ければそのひとと共に死ぬことができる、確かにこれは事実かもしれない。……「死に際して」などということが本当に可能ならばの話だが。実際、「今私は死に際している」とか、「ついにこのひとの最期が来た」とかいうことが一体どうやってわかるというのか。いつ来るか全く分からないその瞬間に備えて、いつ来てもいいようにと執拗に愛するひとの顔を見つめつづける。……やがて眼球が乾き、眉間が疲労し、ほっとこめかみの筋肉を緩めたとき、まさにそのときに、別離が起るのだ。

 私はそんなこと、ずっと分かっていた。だから私は愛するひとと抱擁したとき、「これでよい」と、「このまま死んでもよい」と、否、「今こそ死にたい」と願ったのだ。それが叶わなかったから、せめて眠って死を模倣しようとした。誰かを抱きしめるとは、直ちにその人に抱きしめられることである。能動と受動の問いが無意味になった。この私が、ほんのわずかな瞬間だけ、そう信じることができた。今こそ死にたい、と願ったのだ。まさしく二人が一つになってしまったことで既に私の死が完遂されているようなものなのに、何故私はまだ死んでいないのか、不思議なくらいだった。私は願っていたのだ。願っていた、それでも、それでも到来してしまった日没、別れの挨拶を経て、私はふらついて、翌朝を迎え、椅子に座ってひと息。痩せた林檎を呑気に頬張ってそのしつこい甘みに辟易していたとき、あのひとは死んだのだ。私は、居間の窓と壁の中間辺りしか見ていなかった。

 言っておくが、これは罪の吐露でさえない。ただひたすらに、非存在の事実である。ここにおいて至高の金言とは、最も短く単純なもののことを言う。C'est fait. (セフェ)。「成された」、「終わった」、「これが事実」。罪などというお喋りをやめろ。ならばどうすればよいかって?教えよう。「消えた」。ただこれだけだ。「消えた」。まだ分かっていないようなので、三度唱えるのだ。「消えた」。



全ての死は、どれほど長く準備をされてきた死でも、突然死と言うべきなのだ。                            ―――V.ジャンケレヴィッチ『死』

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