”水の音は『私』の音”におけるホシノ・ルリ小考ー体験の内在性とメリトクラシー 〜機動戦艦ナデシコ
1.はじめに
『機動戦艦ナデシコ』(佐藤竜雄,1996−1997)(キングレコード,2006-2007(DVD))の主要な登場人物のひとりであるホシノ・ルリは、現在でも一定の人気を維持するキャラクターである。彼女のキャラクター性の明確化に寄与したホシノ・ルリ三部作(第5話「ルリちゃん『航海日誌』」、第12話「あの『忘れえぬ日々』」、第18話「水の音は『私』の音」)は、首藤剛志氏の脚本によるものであるが、首藤氏自身のコラムによって創作の意図や経緯について明らかにされている。
また、察するに彼女を対象とした考察は現在では入手・アクセスが困難な媒体によるものも含めて既に散々書き尽くされていることと思うが、今更ながら愚考を書き連ねたい。
2.第18話「水の音は『私』の音」と首藤氏による創作意図の解説
(1)あらすじ
第18話「水の音は『私』の音」のあらすじについては、恐縮ながら読者にて把握していただきたい(記事が記事内で完結するようあらすじを記載するのが本来のあり方であるとは思うが、例えばプロフィール上ルリは11歳である一方精神的な発達等は若くとも15〜6歳を想定するのが適当であるといったアニメ既視聴者ならある程度のコンセンサスが形成できる事項や、更には「機動戦艦」である「ナデシコ」とは何ぞやといった点まで解説を行い出すときりが無く、結局この記事は外部の情報に依存していることを痛感したから、冗長性を避けてあらすじは略すことにした)。
(2)首藤氏による創作意図の解説
18話の製作に際し「遺伝子操作をされた子であるルリの生い立ちを描いてほしい」とだけ依頼された首藤氏は、「生きる」価値に懐疑的で「生きる」ことに必死な周囲を冷笑的に眺める(口癖である「ばかばっか」に端的に表れる)ルリの孤独を描きつつ、彼女が「生きる」価値や周囲の「ばか」達の懸命さに気付くエピソードを描きたいと思ったとのことである。
そこで首藤氏は、まずルリの孤独と「生きる」価値への懐疑を描くために、ルリの父・母の記憶や、教師の記憶がバーチャルであったとの現実を突きつけ、襲撃から受精卵を救いルリを養育した老科学者に「あなたは成功だ」と言わしめる。作品には直接描画されないルリの心情を、首藤氏は以下のように解説する。
そして、続く「水の音」をきっかけとした鮭の遡上への直面によって、自身の記憶における「まがいもの」でない体験の発見と、生命の躍動の体感による「生きる」価値の実感、ならびに同じく「生きる」ことに必死な「ばか」達への理解を描いた。
鮭の遡上は、産卵後は死が待つのみであるにも拘わらず必死に遡上するという点でも、首藤氏自身が幼少期に目撃し感銘を受けたとの点からも、生命の躍動をヴィヴィッドに描くエピソードであった。
※本節は
首藤剛志「シナリオえーだば創作術 第122回 『機動戦艦ナデシコ』18話 ルリ全開準備」(http://www.style.fm/as/05_column/shudo122.shtml)
首藤剛志「シナリオえーだば創作術 第123回 『機動戦艦ナデシコ』18話からさようなら」(http://www.style.fm/as/05_column/shudo123.shtml)
に依拠した。
3.体験の”ほんもの”性と内在性
(1)過去の記憶としての「水の音」
首藤氏の自選は、脚本家自身による解説ゆえ当然ながら物語の構造を能く整理しているし、それゆえ視聴体験の言語化としても参照できるのだが、個人的には1点だけ更なる解説を求めたい要素があった。即ち、「『鮭の遡上』が生命賛歌であるとするなら、なぜルリの過去の記憶=『水の音』として存在する必要があったのか」との点である。
(2)体験の”ほんもの”性
確かに、首藤氏によるルリの内面描写「それは、まがいものでもなく、実験でもなく、生き物が生きていこうとする真摯な姿だ。私は、この音を覚えている。私は、生きているんだ……。」からは、虚構にまみれた過去の記憶に”ほんもの”性を有する記憶があるがために「生きる」価値を噛みしめる、との構図が見て取れる。それでも、「鮭の遡上」自体が生命の躍動を体現するものとして訴求力をもつなら、単なる現在の体験であっても成立するはずであるが、鮭の遡上が記憶の中にも見いだされる必要については語っていない(語弊のないようにいえば、それは首藤氏が何も考えていないとか、言語化を諦めたということではなく、創作とその受容に熟達した者には自明の事項が、私のような文学的感性の低い者にあっては殊更言語化しなくては理解できない、ということであるように思う。むしろ都度言語化せずともそれまでの創作・受容体験に基づいた感覚的な「よい」を形にすることで多様な含意をもつ物語を構築できるのがクリエイターなのだろうと考える)。
(3)「『私も』生きていく!」ー体験の内在性
ルリが「私も生きていく!」と宣言するとき、「生きていく!」の決意は目の前で、そして記憶の中で命を燃やす鮭たちが与えてくれた。では、なぜ「私も」と思えたか、といえば、「私」という存在の中に、原初的に、命を燃やす体験=「水の音」があったから、と言えるのではなかろうか。首藤氏によるルリのモノローグ風に書けば、
「鮭たちは懸命に生きている。その姿が決してエレガントではないにも拘わらず『まぶしい』ことは、ただ『生きる』ことの意味を教えてくれる。私の周りの『ばかばっか』達も、鮭のように『まぶしい』存在なのかもしれない。
でも、私は同じように懸命に生きられるだろうか。懸命に生きる権利と、資質をもっているだろうか。『ばかばっか』達は、”ほんもの”の人間から生まれ、”ほんもの”の人間に育てられ、”ほんもの”の体験を経てきた。それに引き換え、私は偽物として生まれ、偽物に囲まれ育てられた。
いや!確かに私は、幼少期の多くの体験は偽物であったかもしれない。でも、私の奥底の記憶、私の最も大事な記憶は”ほんもの”で、懸命に生きる生命は私という存在とともにあった。私だって、懸命に生きる生命のひとつなんだ」
となるだろうか。
4.ルリの孤独と業績主義的消費
ところで、主に首藤氏はルリの孤独を「まがいもの」性(=非”ほんもの”性)と非人間性によって説明していた。しかし(単に首藤氏が明言していないだけかもしれないが)ルリの孤独は更に「周囲による自身の業績主義的消費」によって強固となっているように思う。
ルリは遺伝子操作が成功だったがためにまず生を確保することができ、優秀さゆえにネルガル重工に拾われ、ナデシコでオペレータを務め、口が悪くてもそれなりに許されている。でも、それは自身が優秀だからだ、と、自身の出生とも絡めて彼女が考えるのは自然である。「ばか」でもナデシコに居場所がある、そしてナデシコから降りたとしても家庭が・友人がいるであろう「ばかばっか」達と違って、私に自身が自身であるだけで認められる居場所はあるのだろうか、と。
まさに18話でルリが「あなたは成功だ」といった老科学者を引っ叩いたのも、そして引っ叩くことしかできなかったのも、自身が出生からして業績主義的に造られ、老科学者が自身の価値を「成功」であるがゆえに認めたがための怒りと孤独感の深化と、一方でまさに自身が「成功」ゆえに生かされ、包摂されている事実があったからといえよう。
上記のような視座によって、鮭の遡上という愚直な生命の躍動によってルリにもたらされた「ただ生きること」への肯定の意義が更に鮮やかになるように思う。
5.おわりに
些末かつ稚拙な考察が、想像以上に冗長となってしまい恐縮である。また筆力不足から、本稿の基礎とし、再三引用した首藤氏の自選への非難と捉えられてしまうことは憂うところである。ホシノ・ルリをキャラクターとして躍動させた首藤氏への敬意と謝意は表し尽くせない。
ちなみに、ルリの主観に拘わらずルリはナデシコに業績主義的にではなく個として受け入れられている(極端に言えばハルカ・ミナトにルリルリと呼ばれた時点で)ともいえる。ルリにとっての孤独と居場所としてのナデシコについては、第12話「あの『忘れえぬ日々』」と併せた考察も必要であろう。
なお、ホシノ・ルリは三部作のみによって描かれているのではない。首藤氏がルリの養親だとすれば、生みの親、そして教師達が存在する。各々のルリをまずは分析的に、そして最終的には統合的に把握する作業をいつかは行いたい。
典拠
首藤剛志「シナリオえーだば創作術 第122回 『機動戦艦ナデシコ』18話 ルリ全開準備」(http://www.style.fm/as/05_column/shudo122.shtml)
首藤剛志「シナリオえーだば創作術 第123回 『機動戦艦ナデシコ』18話からさようなら」(http://www.style.fm/as/05_column/shudo123.shtml)『機動戦艦ナデシコ Vol.3』(佐藤竜雄,1996−1997)(キングレコード,2006(DVD))
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