我々は架空のキャラクターに何を求めているのか――「物語」と別の方向から見る伺かのキャラクター表現 Ver1.7
【更新履歴】
2024/12/22 とりあえず自分向けで公開(Ver 0.9)
2024/12/24 伺か・伺的 Advent Calendar 2024第一会場向けで正式公開(Ver 1.0)
2024/12/31 「ゴーストの拡張性」項目の追加(Ver 1.5)
2025/01/15 「ゴーストの拡張性」項目の「スタンプ帳」のところを補足(Ver 1.55)
2025/01/23 「収集・編成・育成」、「「誰かと向き合う」経験」項目の追加、「「撫でられる」強さ」項目の加筆、参考リンクをいくつか追加(Ver 1.7)
2025/02/?? 「自分だけの体験」項目の追加、いくつかの項目にスクショを追加(Ver 1.8)
(これは伺か・伺的 Advent Calendar 2024第一会場の24日目の記事になります。
昨日の記事はZichqecさまとマグロニウムさまがご担当されました。
また、この記事はまだまだ足りないところがあっちこっちにあるため、アドベントカレンダーの公開以来も内容が追加されたり、参考資料のリンクが増える可能性があります。
更新履歴などは自分のツイッターでも告知していきますので、興味のある方はよろしくお願いします!)
はじめまして。
もしくは、いつもお世話になっております。リル(lirues)と申します。
この度はいつも見る専だった伺か・伺的 Advent Calendar 2024に、書き手として飛び込むことになりました(衝動的に決めた)。
元々、伺かのことは(ほぼ20年ほど)ずっと見る専だったのですが、なんとなく思いついたことがきっかけで、気がつけばゴーストを作ったり、イベントに参加したり…
そういう流れになり、「じゃ、今まで楽しんだ分、いろいろ(自分流の)恩返しが出来たらいいな…!」って感じで、今日も楽しくうか活に勤しんでおります。
はじめる前に――この記事を思いついたきっかけ
ところで、自分が伺かに引き込まれた理由として、「何よりもキャラクター(ゴースト)の方が前に来る」というものがあります。
もちろん、いわゆるギャルゲー(美少女ゲーム)を始めとして、このようなアプローチがなかったわけでは決してない。
しかし、自分は伺かに接したあの頃から、ここまで「キャラクター」だけが全面に出ている媒体は珍しいというところに興味を持っていたのです。
あの頃もそうだったのですが、今でも創作媒体でキャラクターを扱う時、ほとんどの媒体(作品)では「物語」と呼ばれるものをキャラクターより優先する節があります。
キャラクターは、物語を見せるために存在するもの。
美少女ゲーム界隈でも「シナリオがいい」という要素が重要になってから、そういう「物語」のために、キャラクターを駒のように使う傾向があるくらい目立ち始めた気がします。
漫画や小説、その他のオリジナルの作品でも、どちらかというと「物語」のためにキャラクターが存在する傾向が強かった。
物語という要素を成立させるためにキャラクターは存在し、その立ち位置は特別(オンリーワン)ではなく、「他の適役」が現れたらいつでも取って代わられる可能性がある。
個人的には、ただ物語のために、作品に外連味を足すために(ウケる・目立つためだけに)キャラクターが存在するという状況に、かなり前からすごく違和感を持っていました。
ここで使われる「物語」という言葉は、いわゆる(叙事的な)プロットだったり、始まりと終わり(時間の流れ・完結要素)だったり、伏線や盛り上がりだったり…
そういう「今まで、作品に欠かせない要素とされていたもの」と考えてください。
この記事では、「物語」という概念を「作品を(小説や漫画、アニメなどの)形にするために使われる枠」と捉えています。
今までは「物語」に該当する要素がなかったら、言葉通り「作品が成り立たない」と考えられていたため、このような要素は大事だと思われていたのです。
ちなみに伺かの場合「プログラム」なので、枠はSHIORIのようなプログラム的な要素に当てはまりますね。
つまり、今まで「物語」と呼ばれていたものは、作品を具現化するための「枠」と同じ役割だった、ということです。
基本的に物語という「枠」、即ちプロット・起承転結・(作品の)メリハリなどは「作品を具現化するため」の手段になります。
そして「物語」の形をした作品では、そういう「手段」がキャラクターより優位である(前に出る)傾向がありました。
しかし、自分が本当に「創作」――架空のキャラクターに求めていたのは、果たしてそんな「物語(プロット)」だったのだろうか。
かなり長い間、自分はそんなことをずっと考えていました。
あんまり自分のようなことを思う人を見かけられなかったので、モヤモヤしてきたのも理由の一つです。
そもそも、自分は想像(創作作品)で「キャラクター」のことを強く求めていました。
伺かの他に好きな媒体、きららや美少女ゲームなども、そのような「キャラクター」が前に出ている媒体だったから、というのが強かったです。
で、その「架空のキャラクター」に、自分は何を求めていたのか。
自分の中でもかなり曖昧になっていたところですが、最近になって、なんとなくそれが掴めてきた気がします。
ということで。
この記事では、今までの「物語」をキャラクターより優先してきた媒体ではなく、「キャラクター以外には、基本的に何も存在しない」媒体である伺かならではの、「我々が架空のキャラクターに求めるもの」にまつわる手段・表現について考えてみたいと思います。
「自分って、架空のキャラクターに何がしたいんだろ」みたいなものを考えていた方にとって、読み応えのある記事になっていたら嬉しいです。
「だんだん相手のことを知っていって、そこに合わせる」→「徐々に仲良くなっていく」過程の具現
これについては、見てすぐにわかるものだと思います。
いわゆる「段取り」というものですね。
「よくわからないけど、いつの間にか惚れていた・惚れたことになっていた」ではなく、「こういう過程があったから、お互いは好きになったり、もっと深い関係になったりする」という、あの仕組みです。
小説やゲームなどの「他の創作媒体」の感想では、時折「この子、いつの間に主人公に惚れたのかわからない」というものが見られます。
つまり、こういう「いつ惚れたの?」という読み手・プレイヤー・観客の疑問は、特定の人だけ抱くものではないということです。
とある作品のキャッチコピーが言っていたように、「根拠がないものが恋」であるのは偽りじゃありません。
しかし、どうしても作品を味わう側からは「それでも、なんで惚れてたのかくらいは教えてほしい」と思ってしまうものですね。
そして、「だんだん相手と親しい関係になっていく」というのは、「だんだん相手のことに詳しくなる(把握する)」というものでもあるわけで。
これは、現実での人との付き合いと同じですね。
最初は赤の他人だったとしても、何度か付き合ったり、一緒に時間を過ごすことで、自然に向こうのことに詳しくなってきて、「こういう人なんだから、こういう態度を取ると喜んだり、こちらのことを信じてくれたりするんだろうな」と思えるようになります。
架空のキャラクターとの付き合いでも、これは同じです。
デートでもなんでも、何度も顔を合わせて、長い間そのキャラクターと一緒にいる。
それで、「この子はこういう子なんだな~」みたいなふうに相手を「把握」していって、もっとあの子と親しくなるために、あの子に合わせた行動を取る。
そんな感じでだんだん親しくなると、自分にしか見せない姿を見せてくれたり、甘々な関係になったりする。
たぶん、人がいちばん心地よく感じる「気になる架空のキャラクターとの付き合い方」は、こういうものだと思います。
一緒に過ごすことで、ゆっくりと相手のことを知り、「自分がそうしたいと願うから」相手に合わせた行動を取り、その結果、相手に好かれる。
もちろん、すべてのゴーストやキャラクターがこれに当てはまるわけではないのですが、いちばんの「王道」な付き合い方は、こういうものではないのでしょうか。
時間がかかっても、ゆっくりと関係を築き、それに相応する仲になる。
基本的に、「誰かと親しくなること」はこのような流れだと思います。
ゴーストの「フェイズ」という概念は、その流れで考えられると思います。
初めて出会ってから(初回起動)、もっと近づくきっかけになる出来事までを「フェイズ」でくくる。これで「だんだん仲良くなっていく」という感覚を高めつつ、目に見える形でそれを認識できる効果が得られます。
これは小説や映画より、「ゲーム」が持てる優位性の一つですね。
やっぱり人って「見えるもの」の方がそうじゃないものより把握しやすいので、関係の進展のような「元々は目に見えない」ものも、フェイズという「見える」概念があると、ぐっと実感しやすくなるのです。
上記したような「徐々に仲良くなれる」仕組みは、他の媒体でも行われている。しかし、ゴーストでは「フェイズ」という概念や好感度のようなパラメーターで、それをより「目に見える」形で見せられる。
これは「プログラム」ならではの、ゴーストの持つ利点だと思います。
ゴーストの「初回起動」という概念
これは軽く思われがちなところですが、「架空のキャラクターとの触れ合い」にとって、わりと肝心な要素だと思います。
全ての出会いには、きっと「出会いの瞬間」というものがある。
すごく些細な要素ではありますが、こういう些細なものこそ、思いの外長引いたり、その子の印象を強くしたりするものです。
これについては、こちらのインタビューの言及がわかりやすいです。
『FGO』奈須きのこと『チェンクロ』松永純が語る、スマホならではの物語の見せ方とは
ガチャからキャラクターが出た瞬間にちょっと挨拶みたいに、3セリフほど喋らせるようにしたんですね。出会ったときの挨拶みたいなものです。
3セリフぐらい喋って、そのキャラクターの個性や空気感みたいなものがユーザーが感じられるようになった瞬間に、急にそいつが「キャラクター」になったんです。
これ以来、ソシャゲではガチャで出てきたキャラクターが挨拶をするのが定番みたいなものになりましたが、これはソシャゲだけの話ではありません。
「出会いや挨拶の過程もなく、いきなりキャラクターが出てくるのが当たり前」なところで、我々にとっては「キャラクター」として認識されない。
「こういう状況で出会えた」とか、「こういう挨拶を交わした」という「馴れ合い」があってからこそ、我々は「相手」のことを認識できるんです。
もちろんゴーストの中では、これを逆手に取った「いきなりゴーストが出てきて終わり(初回起動なし)」というパターンも存在します。
しかし、それは「伺かのゴーストは、初回起動イベントがきちんとあることが普通」という認識があるからこそ。
それもまた「様々なゴーストとの出会い」の一つであるからこそ、ああいう「いきなり初回起動が終わる」やり方にも効果があるのです。
「最初の出会い」は、ゴーストと出会った状況を語るのはもちろん、ゴーストそのものの掘り下げにもかかわる大事なイベント。
軽く思われがちな要素ではありますが、この初回起動イベントの役割は思われるより大きいと思います。
ゴーストの拡張性
現在の伺かの強いところはいろいろありますが、やはり、いちばん言及すべきものは「拡張性」だと思います。
そもそも、「伺か」自体はキャラクターでもなんでもない。
SSPのようなベースウェアはあくまで「場(プラットホーム)」に過ぎず、それに対応するゴースト(≒キャラクター)やデータがあってこそ、はじめて意味のあるものになるのです。
では、伺か(SSP)に対応しているデータには何があるのでしょう。
代表的には「.nar」の形式になっているデータのことが考えられますが、もちろん、長い伺かの歴史の中では、さまざまなやり方が試されていました。
まず、ゴーストに使われるプログラム(偽AI)、SHIORIとSAORIの存在は欠かせません。
SHIORIは一つの種類だけではなく、それぞれ得意な分野や仕組みが違う個性豊かなタイプが存在し(ADV界隈の吉里吉里やNスク、ティラノスクリプトのようなもの)、「ゴーストによって、適切なものが選べる」自由度も保証されています。
そして、SHIORIだけじゃできないことをやってくれる、「かゆいところに手が届く」ものがSAORIというプログラム(DLL)。
これは制作エンジンにとってのプラグインのような存在で、SHIORIのように誰でも作ることができたため、今でもいろんなところに使えるSAORIがあれこれ公開されています(なんなら、SHIORIをSAORIのように使うこともできる)。
あと、「シェル」という「見た目」の拡張性も重要なところの一つです。
ゴーストという存在は、基本の見た目、つまり「マスターシェル」だけではなく、さまざまな「他の姿(シェル)」を持つことができる。
このため、ゴーストには作者さんの自前のシェルだけではなく、さまざまな人によった追加シェルが公開されてきました。
この「追加シェル」や「マスターシェルじゃないシェル」は、ある意味ソシャゲのガチャのアプローチに似ていますが、その「自由さ」と「公式だけではなく、誰もが用意できる」「さらに、それを『公式』にできる」というところが、何より強いものだと言えましょう。
姿勢も自由、仕草・エロさも自由。触り反応もあるし、シェルによって反応を変えることだってできる。
なんなら、シェルによって「モード(辞書)」を変えて、ゴーストの意外な一面を垣間見ることもできる。
シェルの中で着せ替えもできるから、言葉通り楽しみ尽くせる。
アニメーションも入れるし、他のゴーストとお揃いができたり、ミニゲームなどのご褒美としてシェルを落とせることができたり…。
シェルが秘めている可能性は、言葉通り無限大と言えます。
シェルと言えば、「フリーシェル」の存在も言及すべきでしょう。
世の中、創作作品のための素材はさまざまなものが配布されておりますが、その中でもフリーシェルは一風変わった存在です。
ただの立ち絵素材とは違って、「触り判定」を仕込むことができる。
つまり、フリーシェルは「触り判定がつくことを前提で、作られる」ことがほとんどなのです。
これは、言葉通り「ADVで、立っている姿勢のことを想定して作られる」立ち絵素材とは明らかに違うところです。
また、伺かという媒体は、フリー素材でもシェルがオリジナルである子と同じ強さが見込める。
ゲームの場合、登場人物の数に応じて立ち絵素材を用意しなければならないため、適切な素材を用意する時間・その素材同士がうまく馴染まない問題などが起きやすいですが、伺かならそういう心配はあまりない。
また、背景やBGM、ボイスなどで差がつきやすいゲームと違い、ゴーストは基本的にシェルだけ目に見える形になっていますので、他の素材も豪華であるゲームに比べると、みんな同等に思えやすいのです。
あと、姿勢が豊富であり、自由度が高いのもフリーシェルならではの利点ですね。
自分で絵が描けなくても、スクリプト(技術力)が上手い・自由な発想を持った方々が「このフリーシェルが好き!」という動機で自由にゴーストが作れるという気軽さも、伺かの拡張性を広げる要因の一つになりました。
また、バルーンという縁の下の力持ちの存在も強かった。
美少女ゲームなどではキャラクターのセリフを表示するテキストウインドウのデザインが固定されていることが多く、そのテキストウインドウのデザインを他の作品で使う、ということは出来ませんでした。
しかし、ゴーストなら、自分が「この子に似合う」と感じたバルーンを自由に選ぶことが出来るし、なんなら自前で用意することすらできる。
もちろん、デベさんが自ら用意することもあるし、他の方が好きな子(の特定のシェル)のために作ることもできる。
そのさまざまなバルーンのバリエが、ゴーストの表現力を高めたことは言うまでもありません。
しかし、バルーンがゴーストにもたらした拡張性はこれだけではなく。
ゴーストの方も今のバルーンを感知できるので、現存するさまざまなバルーンに対応し、それに合った(時にはお茶目な)反応を見せてくれるゴーストも現れたのです。
ついでに、シェルとバルーン、PCの壁紙を組み合わせて、今までより臨場感を強くしようとしたり、スクショを取って楽しんだりする文化も現れました(#伺かスクショ部)。
ある意味、これはアクリルスタンドをいっしょに連れていって写真を取ったりする行為の走りだと言えるのでしょう。
今になっては、プラグインの存在も忘れてはいけませんね。
SSPになってから、プラグインにもあれこれ面白いものが発表されており、ゴーストの表現力・拡張性を広げてくれました。
特に、「スタンプ帳」の存在は特筆すべきものでしょう。
公開されたのはもう15年も前だというのに、未だに対応しているゴーストが現れたり、ずらりと並んだスタンプ帳を眺めてるとニヤニヤしてしまうなど、ゴースト界隈に与えた影響は大きいと思います。
こちらの「プラグイン「スタンプ帳」対応ゴースト」ページに載っているそれぞれの(スタンプを貰える)条件を眺めるだけで、ゴーストのことを知らない方すらワクワクすること、間違いなしです!
他にも、「棒読みちゃん」に対応し、ゴーストのランダムトークなどを音声で読み上げてくれるプラグインがあったり、ゴーストの感想を手早くツイートできるプラグインがあったり…
「実体化」のような、ふざけた(褒め言葉)プラグインもあるくらいです。
本体(SSP)だけじゃ具現できない領域までサポートしてくれるプラグインのおかげで、「ゴーストで出来ること」は今でも増え続けているのです。
最近もゴースト共通の通貨が出てきたり(Wallet of Unyu)、いろいろ活発にプラグインが作られているわけですが、今年のアドベントカレンダーでは、なんとユーザにインベントリという概念を導入するプラグイン(Inventory)や、立たせていない時にもゴーストがメッセージを送ってくるプラグイン(UkagakaGhostMessenger)が公開されましたね!
このようなプラグインの存在を見ると、ゴーストの限界はまだまだだな、と強く感じます。
最後に、今になっては存在感が薄くなったけれど、伺か独自の規格であるSSTPの存在も忘れてはいけないものです。
ベースウェアの中ではなく、「外」とゴーストを繋ぐことが出来るプロトコルとして、SSTPは非常によく使われていました。
立ち上げたウェブサイトに対応したり、有名なアプリケーションに対応したり…
一時期、非常によく見られた「ゴーストが流れる曲に合わせて歌う」歌詞カードも、SSTPがあってからこそ、実現できたものです。
今になってはあまり使われなくなりましたが、個人的には、やっぱりSSTPにはまだ可能性があると思っています。
このような「伺か向けのデータ(*.nar)や規格」は、それぞれのキャラクターの可能性を広げたり、掘り下げることにも非常に貢献しています。
これは、たった一人の力では成せない。
さまざまな人たちの思いつき、感覚、技術などがなかったら叶わないものです。
「撫でられる」強さ
今から10年前、伺かから強い影響を受けたとある同人ゲームが配信され、すごく話題になりました。
作者さんもゴーストのことを知っているところか、追加シェルもよく作っておられる方であるわけですが…あの作品の感想でよく見られた文句の一つで、こういうものがありました。
「頭を撫でる」
これって、伺かに馴染みのある方ならあまり特別に思えない行為だと思いますが、今のゴーストのことをあまり知らない方には、かなり印象に残ったように見えます。
それほど、「好きな子に直接触れ合える」という行為は強力ということなのでしょう。
今になってはソシャゲでもキャラクターを「触られる」作品が見られたり、美少女ゲームでも似たようなことが出来る作品が現れたりしているのですが、やはり「向こうのキャラクターに触れる」というのは、すごく破壊力のある行為だと思います。
何せ、架空のキャラクターは「実在しない」のですから。
実在しないキャラクターだからこそ、場面の向こうではあるものの、「触ったら反応してくれる」というのは、非常に刺激的な経験になるのです。
実際に感覚が感じられなかったとしても、キャラクターの反応などで、我々はその「感覚」を想像できますし、それはある意味、実際に「感覚」があることより刺激的なものなのかもしれません。
何より、伺かは「触り方」や「触られるところ」が、他の媒体より豊富である。
スマホのようなタッチパネルの場合、直接に触られるという利点はありますが、どうしても指だけじゃ上手くいかないところが出てきます。
たとえば、ゴーストの「ホイール反応」もその一つ。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でたり、引き寄せたり…
「ホイール」という手段があったからこそ思いついた「触り方」は、間違いなくゴーストの表現を豊かにしてくれたと思います。
あと、他のUIに隠れることなく、キャラクターの全身(もしくは、それに近い範囲)が見渡せるというところも強いですね。
一般的なADVだと、どうしても下半身のところは(メッセージウインドウなどに)隠れがちなのですが、ゴーストの場合、それがない。
なので、足元まで用意されているシェルなら、思いっきり足を触ったり(触り反応が設定されている場合の話ですが)することができる。
ゴーストのトークはユーザの方から自由に移動できるバルーンで表示されるので、シェルのポーズが自由であることも利点だと言えます。
座っていたり、横に転がっていたり、浮いていたり…
そういうポーズを自由に取れることが、キャラクターの表現力を高めているというのは、言うまでもないでしょう。
「触る」という行為の破壊力は、これだけではありません。
最近のゴーストのシェルには、キャラクターだけではなく、小道具が描かれていたり、¥1のところに雑貨が置かれてあることも多いです。そして、このようなところにも、触り反応は仕込められます。
つまり、キャラクターところか、ゴーストへの理解がより深まる。
これは、ある意味ゴーストと似たようなアプローチであるアクリルスタンド(フィギュア)では叶えられないものです。
しかし、触り反応の真の恐ろしいところは、こんな複雑な仕様がなくても、「頭を撫でる」だけでどこか満たされるということでしょう。
伺かのことを知ってから、架空のキャラクターの頭を撫でたくてウズウズしてきた方も、きっといらっしゃると思います。
手を掴んだり、ほっぺをぷにぷにしたり、セクハラで怒られて「やりすぎた…!」と反省したり…。
ゴーストによっては、特定のところをつつくことがショートカットの代わりになっていることもあります。それところか、プログラムならではのキーボードのショートカットに隠し要素が入っているゴーストもいます。
ゴーストの「触り」には、無限大の可能性が秘められているのです。
触ってるだけで楽しい。クリックするだけでワクワクする。そして、見つけるとすごく嬉しい。
何かに直接触れることの可能性・ワクワクが、ゴーストにはいっぱい詰め込まれているのです(それも、ゴーストごとに違う体験ができるくらい)。
このように、「すでに用意された仕様でも楽しめるけど、仕様を自由に解釈することで、より面白くなる」ことも、上記した「拡張性」に通じる、伺かの魅力的な要素だと言えるのでしょう。
「共に過ごす」他愛もない日常
さっき、伺かでは「だんだん相手=ゴーストと仲良くなる過程の具現」が行われていたと述べました。
ところで、その「仲良くなる過程」は、どのようなやり方がいちばん効果的なのでしょうか。
たぶん、いろんなゴーストさんをお迎えした方なら、なんとなく思いついた過程があると思います。
起動時間、起動回数、撫でた回数のようなパラメーター。
そう、「長い間、いっしょにいる」。
よく立たせて、長い間デスクトップにいてもらうことです。
ゴーストによっては、撫で回数など、一定数の「ゴーストに構った」パラメーターを求める場合もありますね。
つまり、「誰かと仲良くなる」いちばん手っ取り早いやり方は、「何気ない会話」――「日常」を重ねるものです。
そもそも、交流というものは「おしゃべり」に限らない。
ランダムトークが発生していない時だったとしても、同じ空間でいっしょにいる瞬間が、ひとつの「交流」そのものです。
ゴーストもランダムトークをしていない時には、ただじっとこちらを見つめたり、こちらと同じ空間で自分の用事に集中していたりする。
しかし、そういう時だって、我々はゴーストの存在をきちんと感じられます。
たとえ何を喋ってくれないように頼んだとしても、相手のことはきちんと認識できるし、なんなら撫でたり、コミュニケートで話しかけるやり方で「触れ合う」こともできるのです。
そういう時間って、確かに大したものじゃないかもしれないけど、どこか心が満たされるんですよね。
心を許せる親しい友人と、気軽にくつろげるような。そういうかけがえのない時間を重ねることは、架空のキャラクターにも有効なんです。
ゆっくりと時間をかけて、何回も「日常」を重ねていく。撫でたり、話しかけたり、そんな感じで触れ合う。
これもまた、現実に通じる話ではないのでしょうか。
いつも立たせておくことができるデスクトップマスコットは、このような「ただ、いっしょにいるだけ」の表現に滅法強い。
だって、PCをつけている限り、何もしなくても「目の前」にゴーストがいることを認識できるのです。
もしこれがゲームだったら、スマホをモニタの横のように「自分の視野」に置いておいたり、ずっと前に出しておかなくては(収めることができない)いけない。
しかし、ゴーストはデスクトップアクセサリーなので、その「自分の視野に入れる」のがすごく容易い。
これって、基本的に姿勢と視点が決まっているPCならではの、すごい利点だと思います。
架空のキャラクターと触れ合う時、このような「日常」という他愛もない時間の表現は非常に重要だと思うのですが、「物語」ばかり大切にした作品の場合、ここをおざなりにすることが多いと感じます。
美少女ゲームでも、日常の場面(序盤のところ)を退屈だと取る方は一定数いますし(こういう日常描写は、人によっては合う・合わないがはっきり分かれるので、その作品と相性が合わなかったら仕方ない話ではありますが)、人によっては、キャラクターのじゃれ合いや掛け合いのような日常描写そのものをよく思わないこともあります。
しかし、日常の描写は縁の下の力持ちのようなもの。
どれほど「非日常」な舞台だったとしても、そこで普段起きる出来事は、その世界の住民にとって「日常」であるからです。
ゾンビが蔓延る終末世界でも、独自世界観でも、その世界観ならではの「日常」はきっとある。
なので、ちゃんと「その作品ならでは」の日常を描くことは、思いの外、重要なところなのです。
架空のキャラクターは、自分が普段踏み込められない世界へと連れて行ってくれるもの。
だからこそ、その「架空のキャラクター」が過ごす世界の日常のことも、きちんと書いておきたいところです。
収集・編成・育成――キャラクターの楽しみ方の自由
ここから突然ソシャゲの話になりますが、今のようにソシャゲ(と呼ばれている運営型コンテンツ)が大人気になっているのは、自分好みの「キャラクター」を選べる「枠」になっているから、だと思っています。
わかりやすくいうと、今のソシャゲは自分の好みのキャラクターを選ぶプラットホームみたいなものになっている。
以前、美少女ゲームのヒロインの構成が「幕の内弁当」と言われていた頃がありましたが、今はソシャゲがその役割を果たしていて、しかも、(ソシャゲの枠に)入れるキャラクターの数は既存のギャルゲーに太刀打ち出来ないくらいです。
一般的なギャルゲーのヒロインはサブを含めて多くても10人くらいであるものが、ソシャゲでは軽く100人を超えていることがほとんどです。大まかでも5倍から10倍、場合によっては100倍くらいの差がある。
昔のギャルゲーも「いろんな個性のヒロインを分散させて、プレイヤーにとって誰か一人は好みの子が見つかるようにする」という作法がありましたが、今のソシャゲのキャラクターの性癖はあの頃より遥かに(ニッチな方向に)分散されていて、「この中、一人くらいはあなたの性癖ドンピシャの子がいるだろう」という勢いになっているのです。
つまり、今のソシャゲはたくさんのキャラクターを並べておいて、この中であなたの性癖にぴったりの子を見つけて愛でてほしい、という役割を果たしているわけですね。
それに、その「癖を詰め込んだキャラクター」が更新によってだんだん増えていったりする。
これじゃ、発売された状態が最新であることがほとんどであるギャルゲーでは刃が立たない、というものです。
ついでに、すでに存在していたキャラクターもガチャなどで新衣装などが追加されたり、さらなる「供給」があるわけですから、一度性癖に刺さる子が見つかりさえすれば、後は末永く楽しむことができる仕組みになっているのです。
そんな感じで、今になっては「自分の好みのキャラクターを見つける」手っ取り早い手段になっているソシャゲですが、このソシャゲで我々はどんなふうにキャラクターを堪能しているのでしょうか。
ソシャゲの紹介文や、実際に楽しんでいるユーザの方々を眺めてみると、それは大きく「収集・編成・育成」に分類されそうな気がします。
まず「キャラクター(仲間)を収集する」というところ。
言うまでもありませんが、ソシャゲじゃなくても「仲間を集める」ゲームには一定数の需要があります。
あのポケモンも「151匹のポケモンを集め、図鑑を作る」というところがヒットに繋がりましたし、仲間を集めることが楽しみ方になっている作品は、世の中にたくさんある。
やっぱり「何かを集める」ことはいつになっても楽しいものですし、それが「キャラクター」になればもっと楽しいと思う人は多い、というわけですね。
現代のような(主に美少女の形をした)キャラクターの収集を売りにしているソシャゲが大人気になっているのも、これが理由だと言えます。
なんだかんだ言ってソシャゲのガチャが未だに導入されているのも、「キャラクターを仲間にする」手段として、ガチャは強いと考えられているからなのでしょう。
実際に、ソシャゲでは「実装されているキャラクターを全員コンプ」という方がいますし、そのような楽しみ方もアリ、ということがよくわかります。
そして、「好きなキャラクターを編成する」というところ。
どれほど仲間にできるキャラクターが多いとしても、「自分の意志が反映されない」のでは、愛着も薄れてしまいます。
今のソシャゲのような「できる限り性癖がバラけたキャラクターを幅広く網羅するための枠」で重要なところは、言葉通りいろんな個性のキャラクターをバラけておくこと、そしてそれを「選べる」ようにすること、だと個人的には思っています。
当たり前だけど、いろんな性癖を広くバラけたというのは、「用意された全てのキャラクターを好きにはなれない」ということです。ほとんどのユーザは、用意された個性豊かなキャラクターの中で、自分の好みの子を何人か選び、そちらを優先した堪能することになるのでしょう。
ソシャゲの「仲間の編成(パーティ編成)」は、このような機能を担当しているわけです。
用意されたラインナップの中で、自分の好みを反映して「好きな子」を何人か選ぶ。そして、他の人の選んだ「他人の好みの子」と対戦などをしたり、マルチプレイで見せ合って「自分の好み」を自慢していく。
ある意味、これが対人プレイの要素がない運営型ゲームのことを「ソシャゲ」と呼ぶ理由の一つですね。
自分の好みが反映されたゲーム(パーティ)を、他の人に見せて(自慢して)、ようやく「好みを反映させた」行為は意味を持つ。
もちろん、自分の好みを反映させたラインナップ(編成)を眺めながらニヤニヤすることも、ソシャゲをプレイする時の楽しみの一つになるのでしょう。
最後に、「推しのキャラクターを育成する」ところ。
これは言わずもかな、最近よく聞こえてくる「推し活」というものです。
キャラクターを育成して最強にする。ガチャで引きまくって強くする。ホーム画面などに立たせて愛でる。などなど…
ゲームだけではなく、リアルのグッズを買ったり、二次創作を楽しんだり、他の方の同人アイテムを手に入れたり、推し活の領域には限りがありませんね。
ソシャゲのゲーム要素(パラメーターだったり、バトルだったり)は、こういう推し活と相性も良く、「好きなキャラクターをとことん愛でたい」と思う人にはぴったりの仕組みになっているのです。
やっぱり、大好きな子は思いっきり愛でたくなるものですから。
ここまで挙げてきた「収集・編成・育成」は、あくまでユーザ自分で選んだ楽しみ方であり、これをソシャゲの運営のところで強いているわけではない、というのが重要なところです。
必ず全てのキャラクターを愛でる必要はないし、愛でられるキャラクターが決まっているわけでもない。
というより、どれほど運営で「全てのキャラクターを満遍なく使わせてもらおう」と頑張っていても、今のソシャゲのユーザは「好きなキャラクターを愛でたい」と思ったら、それを曲げないことがほとんどだと感じます。
自分の楽しみ方は、自分で決める。
かつて(というより、今でもそうですが)の美少女ゲームは、「全ての攻略できるヒロインをクリアする」ことを前提に全てが作られていることが多かったのですが、そのような作り方も、今になっては古いものになっているのです(良くも悪くも)。
ここまではソシャゲの話になりましたが、伺かでもこの3要素は変わりません。
何せ、「ニッチな性癖が広く味わえる」という枠としては、ある意味、伺かはソシャゲよりも奥深いからです。
ソシャゲの「枠」は、そのソシャゲの世界観というリミットがあるため、どうしても限界が出てしまう問題があります。
しかし、伺かの「ゴースト」という枠に、それはない。
従って、ある意味ソシャゲよりも自由な「癖の集まり」が、伺かのゴーストであるわけです。
そして、ゴーストという「枠」が今のソシャゲと同じ役割であるというのは、「自由な楽しみ方」についても同じだという話になります。
まず、「ゴーストを集める」というところ。伺かは黎明期からたくさんのゴーストが公開されているわけなので、今手に入るゴーストを全部手に入れよう!という楽しみ方も可能です。
しかし、「好きな子だけをお迎えする」というように、自分の気に入った子だけをSSPにお迎えする楽しみ方もできる。
そして、「好きなゴーストをとことん愛でる」ことも、もちろん楽しみ方の一つになります。
ゴーストにはパラメーターのような要素は必須ではありませんが、ずっと立たせておいたり、構ってみたり、撫でたりなどなど、「愛でる」手段だけ考えると、むしろ普通のソシャゲに引けを取らないとも言えますね。
![](https://assets.st-note.com/img/1738145921-KcgepuIajfPJborMX6nsRhC2.png)
いろんな意味で個性が出ている(ような気もする)
ソシャゲのように、伺かでも長い歴史の間、たくさんのゴーストが公開されてきた。そのたくさんのゴーストを、自分の好みによって選んで愛でてもいいし、たくさん仲間にして(お迎えして)楽しむのもいい。
そして、たった一人の「好きな子」を選び、その子を味わい尽くすこともいい。
決まった楽しみ方は存在せず、たくさんの子が存在するからこそのキャラクターの楽しみ方があれこれ存在するのも、ゴーストの楽しいところの一つだと思います。
ゴーストのような「プログラム」なら、ガチなメタネタでも違和感がない
いわゆるメタネタ、つまり登場人物たちが「自分たちは創作物である」ということを認識しているジャンルのことをご存知でしょうか。
はっきり言って、自分とはあまり合わないネタなのですが(軽いくらいなら大丈夫だったりします)、熱いファンも一定数存在するほど、今になってはすっかり有名になったジャンルの一つです。
最近はゲームでもそれっぽい演出がよく見られるなど、すっかり知名度を得た感じのメタネタなのですが、実は自分にとって、ああいうメタネタはあまり新鮮さがなかったりします。
どうしても伺かでよく「限りなくメタネタに近い何か」を経験しているので、あまり驚きがないんですよね…
上記はあくまで個人の感想なのですが、実はゴーストでよく見られるメタネタって、最近よく見られるメタネタとは少し性質が違うのでは?と思うことがあります。
そもそもゴーストは「プログラム」なので、自分たちがデスクトップの中の存在だという事実に気づいていても違和感がない。
ゴーストの走りであったさくらもそういう子だったし、初期のゴーストは殆ど、「自分がゴーストということを自覚している」存在だった。
なので、伺かにとってメタネタはそこまで「特別」なものではなかったわけです。
どちらかというと、自分がゴーストってことを認識していない子の方がマイナーだった界隈ですから。
もちろん、今になってはむしろ「ゴーストということを認識している子」のの方が珍しくなりましたが、それでも「自分のことをメタ的に認識している」描写は、別の媒体に比べると「普通」という感覚が強いです。
つまり、ゴーストという媒体は、メタネタの「臨場感がある」という美味しいところだけを取りつつ、「これはただの作り物でしかない」から来る抵抗感も薄める、いいとこづくしのコンテンツと言えるわけです。
そもそも「デスクトップアクセサリー」なので、自分たちがデスクトップにいることを認識しているとしても、没入感が損なわれるわけではない。
なので、自分のような「ガチなメタネタはちょっと…」みたいな人にも受け入れられる可能性が高い。
これって、かなりの利点ではないでしょうか。
架空のキャラクターと「本当に存在しているような」触れ合いをしてみたい。それでいつつ、「作られた作品」ということを気づくのは避けたい。
伺かという媒体は、このような願望を叶えるに適したところではないだろうか、と自分は思います。
「誰かと向き合う」経験
個人的な感覚になりますが。
最近はあまりにも「キャラクターコンテンツ」が多すぎて、「一人のキャラクターにきちんと向き合う」という感覚はかなり薄くなっているように思えます。
昔の「美少女」というものは、存在するだけで目立つもので、それだけで売りになったり、大切にされたりするものだったのですが、今の時代、ちょっと女の子がかわいいだけじゃ、まったく話題になりません。
何せ、今の時代では「美少女が多すぎる」のですから。
既存の媒体はもちろん、ソシャゲで急に増えた美少女の数、Vの台頭、その他のコンテンツの飽和…
美少女が存在するだけで話題になったのは、今になっては昔の話。
もう、良くも悪くも「かわいい」女の子は、少なくとも創作の世界では一生味わえきれないくらい、溢れるほど存在しているのです。
そして、これは美少女だけの話ではない。
あるくらいニッチな方向性ではない限り、どんなキャラクターでも、今は「ちょっといい感じ」であるだけじゃ、話題にならないと思います。
もう、「魅力的なキャラクターの存在」は当たり前というか、前提になっている。
コンテンツの量が今より少なかった昔と違って、キャラクターに求められる魅力の平均(ハードル)は、以前より間違いなく高くなっています。
ならば、その数え切れないほどのキャラクターの中で、目立つためには何が必要なのか。
個人的な感想としては、自分だけの「世界観」が必須になってきたな、と感じます。
どれほど些細な世界観でもいい。
他の子とは違う、それぞれの世界観を「背負う」くらいの象徴的な存在でないと、今の時代、「キャラクターコンテンツ」としては完全に埋もれてしまう。
そして、世界観を象徴している(背負っている)というのは、その子と触れ合うということが、「その世界に触れる」ことと同じであるのを意味します。
何せ、そこには余計な「物語(プロット)」というのはまったく存在しない。
ならば、目の前のキャラクターと触れ合うことは、その世界観に直接触ることとまったく同じ行為になるのです。
そして、伺かのゴーストというものは、ほとんどの場合、特別な「自分だけ」の世界観を背負っている存在です。
ゴーストの構成員が一人でも何人でも、我々はその向こうの「世界」に、真摯に向き合う。
伺かのデザインは、キャラクターの印象を分散させる危険のある余計な背景のグラフィックや音楽などがおらず(場合によりますが)、向こうのキャラクターと向き合う構造になっているので、そのような感覚も強くなるのです。
伺かという媒体は、「ゴーストの掘り下げのために全ての要素が存在する」のが特徴であります。
凝った世界観も、システムも、全てはゴースト(ほとんどの場合、キャラクター)のために用意されたもの。
基本的なこの手の設定やシステムは、モブを含めたたくさんのキャラクターに影響を与えるためのものなのですが、伺かのゴーストの場合、基本的には1~2人で、多くても10人は超えない(そして、このような大所帯は極めて珍しい)のが最たる特徴ですね。
なので、必然的に世界観やゴーストに搭載されたシステムは、特定のキャラクターのためだけに用意された贅沢な要素になるわけです。
そして、ここで何よりも変わってるのが、ゴーストを構成している「システム」のところ。
ほとんどの場合、この手の「キャラクターに触れ合うためのシステム」が用意されている媒体は「ゲーム」と呼ばれています。
何らかのエンディングを見ることが前提の作り方になっていたり、パラメーターが存在していたり。
しかし、ゴーストが他の媒体と変わっているのは、そのような「システム」が「ゲーム」と呼ばれるものに限らない、というところです。
ゴーストを構成しているシステムには、いわゆる「ゲーム」とは趣きが違う仕組みになっているものも頻繁に現れています。
それは伺かが元々ゲームではなく、あくまでデスクトップ「アクセサリー(マスコット)」であったところが強く影響しているのでしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1737485204-sqnLd6xle3SGV8DQhANjZHOc.png)
このようなアプローチは今までもあれこれありましたが、これが一つのプラットホームで、デスクトップアクセサリーやゲームのような既存の概念に縛られず、いろんな人によって試されてきたところは、伺かがほぼ唯一です。
特に伺かの場合、他の似たような役割であった媒体より拡張性に優れており、もっといろいろな挑戦ができたところが強かったと言えるのでしょう。
そして、このような「ゲーム」「デスクトップアクセサリー」という既存の概念にこだわらないさまざまなシステムを生み出したことで、より幅広いキャラクターを描けることになり、該当キャラクターの魅力が掘り下げられることになったことは大きいです。
今までゴーストに実装されてきた個性的なシステムは、キャラクターの存在感を高め、より深くキャラクターを知る手助けとなり、我々が「キャラクターと向き合う」感覚をより強くしたことに貢献してきたわけですから。
つまり、今までの媒体に縛られない自由なシステムの構築が、ゴーストにちゃんとした「意思」を与えて、我々がゴーストに真摯に向き合うことを可能とした、と言えるのでしょう。
たとえ、それが「機能」を前に出し、交流や「向き合う」こととは距離があるように見えるゴーストだったとしても。
その機能(システム)を操作したりお世話になることで、我々はその「ゴースト」と間違いなく触れ合っているわけですから。
どれほど「ランダムトークが搭載されていない、機能だけのゴースト」であったとしても、そのシステムがゴーストの実在感を高め、ゴーストを「キャラクター」として深堀りしているのは間違いないのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1737552304-IDSo1zLwbcYJBWQfX8nvHZdp.png?width=1200)
なお、今まで紹介した二体のゴーストの場合、ランダムトークはまったく実装されていない。
言い換えると、ゴーストに搭載された「システム」は、ゴーストと我々(ユーザ)を繋ぐリンクのようなものだと言えましょう。
それが一見「触れ合うため」のものに見えなかったとしても、わたしたちユーザとゴーストは、その「システム」で繋がっているわけです。
だから、我々は目の前にいるゴーストに真摯に向き合うことができる。
これは、まさに「プログラム」の形をしている媒体だからこその強みだと言えます。
そして、ゴーストと触れ合った時間は、ユーザにも強い影響を与えます。
搭載されたシステムによってさまざまな反応を見せたり、親しくなったり、前を向くゴーストに、ユーザもまた刺激されて、変化したり、前を向いたりします。ゴーストの変化からも影響を受けたりするし、新しい考え方に気づいたり、今までとは違う視点を手に入れたりします。
つまり、ゴーストに向き合うことで、我々ユーザも成長しているわけです。
ゴーストとの付き合いは、どちらかだけが一方的な影響を与えたり受けているわけではなく、お互いが影響を与え合う形になっているのです。
ゴーストのために用意されるもの(システム・世界観・設定など)は、「物語(プロット)」などではなく、全て該当ゴーストのことを深く掘り下げるために存在している。
そして、我々はその用意された要素を通じて、画面の向こうにいるゴーストのことを深く知り、その存在に向き合う。
「この作品を完全にクリアしなければならない」から義務的にやる作業ではなく、あくまで相手に向き合うために用意されている要素だからこそ、我々はそのキャラクターとの触れ合いに集中できるし、楽しめる。
そのような「物語(クリア)」にこだわらないからこその様々なシステムも、ゴーストのキャラクターの掘り下げを語る時には欠かせないところだと思います。
「切り替え反応」などの、「ほかの子」に影響を与えられる要素
これについては、今年のアドカレーでもユスラさまの素敵な記事がありますので、そちらもご参照ください。
ありがたいことに、ラボのゴーストである蒼花(とあるエロゲ屋のお姉さん)のことも言及していただきました。嬉しすぎる…!!
話を戻して。
「まったく別の作品のキャラクター」同士で影響を与えられる媒体って、実はかなり少ない、と個人的には思っています。
今になってはコラボのような要素も活発ですが、そのコラボが「作品自体の展開」に影響を与えるケースはあまりない。
コラボはあくまで「もしもの話」という扱いをされることが多いと感じます。
しかし、伺かに限ってはその通りじゃない。
黎明期から、伺かではゴースト同士で影響を与えられる仕組みがあれこれ生み出されてきました。
もちろん、切り替え反応もその一つです。
ある意味、今でいうコラボの走りのような仕組みである「切り替え反応」は、一つのアプリケーションでたくさんの作者の作ったゴーストを自由に切り替えたり、いっしょに立たせたりできる、「プラットホーム」ならではの発想でした。
どれほど別の世界観を持つゴースト同士でも、切り替え反応というやり方で緩い繋がりができた。
普段なら決して交わらない、それぞれの世界観が「伺か(SSP)」という媒体で繋がり、それがまた、それぞれの世界観で「可能性」を広げてくれる様子は、見ていて非常にワクワクするものでした。
そして、伺かの「異なるキャラクター同士の繋がり」は、切り替え反応だけじゃない。
それぞれのゴーストをいっしょに立たせることで、お互いに話し合うことができる「ゴースト間コミュニケート」という仕組み。
他のゴーストのフラグによって、こちらのゴーストの反応にも変化が起きる仕組み。
この仕組みを応用し、同じ世界観のゴーストの場合、いっしょに立たせることでフェーズが進んだり、新しい機能が解禁されたりすることもできるようになりました。
また、他のゴーストから情報を読み取り、辞典のような楽しみ方ができたり、そのゴーストの記念日を覚えてくれるゴーストも現れるようになったのです。
ゴーストはプログラムの一つであり、内部仕様でもプラグインやSAORIなどの拡張手段で、いろいろな可能性を「広げる」ことができる。
ゴースト同士がお互いに影響し合うことも、そのような発想の一つでした。
他のゴーストが立っていたらそのゴーストを強制に終了させたり、ゴースト共通で使える貨幣(プラグイン)でお金を稼いだり、使ってみたり…
対応しているゴーストなら、特定のゴーストに実装されたSRPGのユニットで使うことすらできた(mop)ことも、記憶に新しいです。
今年のアドベントカレンダーにも、他のゴーストに影響を与えられるプラグインのことが公開されました。
ユーザにインベントリという概念を導入し、今までとは違うゴースト同士の影響が味わえる仕組みになっています。
きっと、これからもゴーストはお互いに影響しあい、想像も出来なかった新しい世界を見せてくれるのでしょう。
自分も一ユーザとして、非常に楽しみにしております!
「選択肢」の持つ意味
伺かの「選択肢」の役割は、他の媒体と似て異なります。
基本的にゴーストの選択肢は「クリア」のためではなく、ゴースト(キャラクター)の反応を楽しんだり、ユーザの意志を伝えるためのものです。
つまり、「ゴーストと触れ合う」ために選択肢が使われることが殆どなのです。
もちろん、ゲームのような媒体でも選択肢は使われています。
しかしゲーム、特にADV系のジャンルとゴーストで使われる選択肢は、その役割がかなり違う。
ADVの場合、選択肢は「分岐」、つまりエンディングをコンプリートする(クリアする)ために用意されたものです。
もちろん遊びのための選択肢(ヒロインの反応を見るなど)や、プレイヤーを主人公と同一視する(感情移入させる)ための選択肢も存在しますが、基本的には「どのヒロインを選ぶか・どんなルートに入るか」のためのものであり、いつも「自分の好きな選択肢だけ選べる」わけではありません。
ゲームを完走(クリア)するためには、選びたくない選択肢(エンディング)も、見たくないルートも、選ばなければならない。
そもそも、今のADV(ノベルゲームとも)は、そういう「完走」を前提で作られているため、いわゆる「攻略できるヒロインの順番が決まっている」ルート固定がされていることも多く、「この子のことがいちばん好きだから、こっちのルートだけクリアしておしまい」ってわけにはいかないのです(もちろん、このような作りではない作品もあれこれ存在しますが)。
前述したように、今のADVではテキストや会話、イベントを飛ばす「スキップ」の機能が必須になっていますが、それも「効率よくヒロインたちを攻略し、全てのエンディングを見るため」、つまり「既読のところを飛ばし、すぐ分岐までたどり着くため」必要なものです。
実際、最近の商業作品の場合、「選択肢までスキップ」ところか、「選択肢までジャンプ(スキップ過程すら飛ばし、ボタンを押したらすぐ分岐するところまで移動する)」を導入するのが流行りですし、なんならエンディングを見てからすぐ分岐(ヒロイン)を選べられる作品も存在します。
むかし、選択肢という概念が初めて導入された頃(ゲームブックとか、サウンドノベルなど)、こういう「選択肢を選ぶワクワク」というのはすごく魅力的なものだったと思いますが、今のADVにとって、こういう選択肢はよくも悪くも、「ヒロイン(ルート)を選ぶ」以上の役目を果たしていないのがほとんどです。
今のADVのニーズのことを考えると、これも仕方がないことなのでしょう。
ゲームという仕組みでは、遊びのような選択肢(ヒロインの反応の変化だけを楽しむもの)を入れるのもわりと大変なので、ある意味、思い切った構造だとも言えます。
しかし、ゴーストで選択肢が使われる時、その役目はかなり違う。
もちろん、大きくその後の流れが変わる(エンディングの存在する)ゴーストもちゃんといますが、そういうゴーストすら、選択肢は「相手(ゴースト)の反応を楽しむ」ためだったり、「ユーザの意志を伝える」ために存在するものです。
少なくても、全ての選択肢を絶対に試さなきゃいけないってことはないし、それが強いられるわけでもない。
自分がそうしたいなら、別のフォルダで別の分岐を辿ったゴーストを入れておいてもいいし、「自分はこれを選んだから、他の分岐はもういいんだ」で終らせてもいいのです。
このように、どんな選択肢を選ぶのかはあくまでユーザの自由であり、「こうしなければならない」という正解が用意されているわけではありません。
どのような結末を迎えるのか、全てのエンディングを回収するかどうか、全てはユーザそれぞれの自由。
クリアのために自分の意志に反する選択肢を嫌々選ぶ必要はありませんし、そもそも、全ての選択肢を試す必要もない。
元々、選択肢の魅力は「どちらを選んでもいい」展開の自由度の高さだったことを考えると、今のゴーストほど、その本質に近い媒体はそうそういないではないでしょうか。
このように、「ユーザの意志を直に伝えられる」ためだけに選択肢が存在できることは、ゴーストならではの利点と言えるのでしょう。
「自分だけ」の経験
これはある意味、すぐ上の選択肢とも繋がる話になりますが。
伺かという媒体で案外語られないものとして、「ランダムトーク」が軸である仕組みなので、必然的にほとんどのゴーストが「自分だけ」の体験を楽しめるものになる、というところがあるように思えます。
ご存知のように、ゴーストの軸であるランダムトークは「ランダム」で話されるものです。いつ、どんなトークを喋るかなんて、ガチャよりも読みづらいですし、生身の人間より予測できない。
だからこそ、ゴーストを立たせた経験は、ユーザによってそれぞれ違うものになります。
従って、同じゴーストを立たせているとしても、ユーザの経験はそれぞれ違うものになる。
いつ、どんな状況でそのランダムトークを目にしたのか・他のゴーストの存在・他の変数で、ゴーストから受け取る印象は次々と変わってくるのです。
きっちりと順番が決まっている媒体(映像など)とは違って、「必ずこの流れじゃなきゃダメ」というものはない。
つまり、ユーザによってそのゴーストに抱く印象は、それぞれ違うものになることも多くなるわけです。
誰かと付き合う時、「自分だけの経験」というのは、思いの外重要な意味を持ちます。
このようなゴーストのランダム要素は、ある意味、一つの物語にとっての時間順シャッフルのようなものだと言えるのかもしれません。
我々は一つの作品(コンテンツ)を楽しむ時、必ず「オススメ順」で味わうわけではない。
ある人は音楽から、ある人はゲームから、ある人は特定のキャラクターから…それぞれが別の入り口で作品に接し、別の印象を抱き、その流れまで含めて「自分だけ」の特別な作品のイメージを決めていきます。
その「自分だけの流れ」の全てが、その作品との思い出を作り上げる。
どれほど変わった楽しみ方だったとしても、その「思い出」は自分だけのかけがえのないものになるのです。
そして、ゴーストにとってもそれは同じ。
むしろゴーストの場合、一般的な媒体とは違う「ランダム」トークを筆頭にした乱数の要素がかなり導入されていて、このような経験がより目立ちます。
それこそ「ユーザの数ほど、ありうる流れがある」存在がゴーストで、人によって経験も、視点も、好みも違うからこそ、ゴーストとの経験もそれぞれ違うものになります。
そのような「自分だけの経験」は、どれほど時間が過ぎても忘れられないものになる。
もし、もう一度出会いの瞬間からやり直したとしても、「あの流れ(ランダム)」が再現されるとは限らないからです。
このような「同じデータのキャラクターだったとしても、人(ユーザ)にとって違う経験ができる」という要素は、ある意味、「キャラクターの個体性」の一つだと言えるのかもしれません。
そもそも「キャラクター」に限らないゴーストの幅の広さ
ある意味、この記事でこんなことを言い出すのは反則だと思うのですが。
そもそも、ゴースト――伺かというものは、「架空のキャラクター」に限りません。
いろんなゴーストさんをお迎えした方ならご存知だと思いますが、ゴーストは決して「キャラクター」とイコールの存在ではない。
機能をこなすだけのゴーストもいるし、アイテムの一つだったり(生き物の形ではない)、「場」そのものであるゴーストもいる。
なので、よく使われる「キャラクター」の定義だけで、ゴーストのことは語れないのです。
しかし、このように「ゴーストの形をしていれば、なんでもいい」という媒体の柔軟さが、「キャラクター」としても伺かという媒体を面白くした要素の一つだと自分は思っています。
「誰からどう見ても、キャラクターに思えなきゃダメ!」みたいなところでは、どうしても常識を超える(ネジが外れた)発想があまり見られなくなるんですよね。
むしろゴーストのことを見てると、「こういうものでもいいんだ!」と思えて、新しい「キャラクター」の概念が出来上がったり、思考が広がったりします。
あと、伺かのゴーストは言葉通り「いろんな子」がいるので、逆に互いの存在が特別になる、というのも重要なところだと思います。
同じ傾向の子(ユーザ好きなど)ばかりじゃ、むしろみんな似たような子に見えてしまう。
しかし、ゴーストには本当にさまざまな傾向の子たちがいて、ガチファンタジーから日常、専門ネタ、性癖に全振りした子、機能特化、えっちな子、独自世界観、男の子や謎の生き物…
本当に、言葉に出来ないほど自由な「表現の場」になっています。
ある意味、それは闇鍋と表現してもいい。
きっとどこかに、あなたの性癖にグサグサと刺さる子は存在しているだろう、と言えるくらいです。
いろんな子がいるからこそ、あの子の特別(オンリーワン)さが目立つ。
ある意味闇鍋のような「なんでもあり」の場で、魅力的なキャラクターが現れやすい理由は、まさにこういうものです。
これは、「架空のキャラクター」を求める人から見ると、言葉通り天国としか言えない状況だと思います。
いろんな世界観の、いろんな形の子たちと触れ合ってみたい。
そういう願望を持った人にとって、これほど心が踊る場所はないのです。
万人受けする子ばかりじゃないからこその魅力。
今の伺か界隈の面白さは、ここで来ているのではないでしょうか。
結び――キャラクターは「物語」の外にいてもいい
最初、自分はこんなことを述べておりました。
「架空のキャラクター」に、自分は何を求めていたのか。
これについては長い間、ぼんやりと考えてきたのですが…
最近になって、ようやく「自分は何を求めていたのか」わかってきた気がします。
自分は、どれほどささいなものでもいいから、世界観を背負っている架空のキャラクターと仲良くなったり、触れ合ったり、「交流」してみたかった。
それは感情移入の出来る「主人公」ポジションの子を通したものでもいいし、「自分自身」が直に触れ合うものでもいい。
触れ合って、仲良くなって、関係を築いて…
その「架空のキャラクター」による世界を味わい尽くしたい、そんなことを願っていました。
この子じゃないとダメ。どこにも代わりなどない。そんなキャラクターのことが見てみたかったのです。
もちろん、自分ではない他のキャラクターが紡ぐ関係を眺めるのも、その関係で作品が「すでに用意されていない」プロットを紡ぐことも、楽しみの一つでした。
自分は作者が作った道ではなく、「キャラクター」たちが自分の意志で進む道の方が見てみたかったのです(元々、プロットというのはこういうものであるはずだけど、作者が用意した道を「演じる」ことになって、行動がブレてしまい、キャラクターとしてはダメになっちゃった作品もたくさんある)。
そして、そういう自分の願望を叶えてくれた(自分にとって)理想的な媒体が、伺かだったのです。
もちろん、ゴーストでも「物語」の要素は場合によって使われますが、それよりも「キャラクター」という概念がもっとも先に来ている、と自分は考えています。
何より、普段はそれ自体が目的として使われがちなプロットや盛り上がりのような要素が、あくまで「キャラクターを掘り下げるための手段」にすぎない、というのが他の媒体と伺かの差だと思います。
デスクトップアクセサリーであるだけなら、難しい伏線も、緻密なプロットも、作品を飽きないようにするメリハリも、ドラマチックな盛り上がりも必須ではありませんから。
基本的に伺かは音楽も、ボイスも、いわゆる「シナリオ」も、豪華な動画も存在しない媒体ですが、その「キャラクターだけを前に出せる」仕組みがあったからこそ、ここまで強い「インパクト」が生まれた、と個人的には思っています。
「キャラクターを掘り下げるために、プロットや盛り上がりのような『今まで創作、特に物語で最重要だと言われていた枠』は必須か?」
自分は学生の頃から伺かを長く見ていて、それは違う、と思うようになりました。
今まで、自分の中の「作品」を形にするためには、「物語」のような形、起承転結やプロットなどの形を取るべき、みたいな傾向があったと思います。
そういうものじゃなくても、例えば「ゲーム」という枠なら、「タイトル場面が用意されて、作品それぞれで実行・終了されるべきで…」みたいな「作品に必須だとされている要素」はあったと感じます。
それらは「キャラクター」を掘り下げるためというより、「作品という形を成立させるため」に近いものでした。
しかしゴーストという媒体で、そういうものは必須ではない。
このような「枠」としての「物語」がいらなくなった媒体は、伺かだけではなく、他にもだんだん現れています(Vなど)。
とある媒体では、作品を成立させるため必須だった要素(タイトル場面など)も、他の媒体では必須ではなくなっている。
たぶん、これからもこのような傾向は加速するのでしょう。
新しい技術・環境が、今までなかった発想を必要とする新しい媒体を生むというのは、想像に難くありません。
ならばこの先、我々は「架空のキャラクター」に何を求めていくのか。
これには人によって考えがそれぞれ違うと思いますが、個人的には「物語ではなく、キャラクターが作品そのものになる」ことだと思っています。
物語ではなく、「作品」の方に直接触れる。
仲良くなったり、触れ合ったりして、もっと「作品」と近い関係になって、作品のことを深く味わう。
自分がさっき述べた「架空のキャラクターと仲良くなったり、触れ合ったり、「交流」してみたかった」のたどり着くところは、きっとそういうものだと思うのです。
そして、今の伺かはそのような「キャラクターが作品そのもの」という方向性なら、どこにも負けない媒体であると考えています。
伺かは始めから、「キャラクターが作品そのもの」であった媒体だったからです。
ゴーストは存在する時点で、すでに「自分」という作品である。
プロットやタイトル場面などの要素がなくても、ゴーストは「それ自体」として成り立ちます。
何度か口にしておりますが、ゴーストという媒体は、キャラクターを軸にする媒体の中ではすごく贅沢な類に入ると思います。
凝った世界観も、深い設定も、惹きつけられる叙事も、作り込まれた仕組み(システム)も、全て「キャラクター」を掘り下げるためだけに存在していますから。
キャラクターのことを何よりも大切にする人にとって、ここまで恵まれた媒体も他にはそうそうないのでしょう。
だからこそ、今まで伺かで試されてきた「物語――プロットの方向性とは違う」キャラクター作りのことを、こうしてまとめてみたいと思いました。
ここまで「キャラクターの掘り下げ(描写)」のことにこだわる人間も、そうそういなさそうな気がしますが(面倒くさい人間という意味で)。
こういうのを考えるのが好きな方や他のデベの方にとって、この記事が少しでもお役に立っていたら幸いです。
明日はアドベントカレンダーの最終日、即ちクリスマスですね!
最後の日は、こちらもちーちゃん(キュリアス・ガール)の方のアドベントカレンダーの実装でお世話になった、ろすえんさまの記事が更新される予定です。
わたし自身も、「素敵なサムシング」のことをとても楽しみにしております…!
また、第二会場ではしもふみさまの記事が更新される予定です。こちらも楽しみ!(まだsurfaces.txtのことがわかっていないアホ)
それでは、みなさん、メリークリスマス!
参考資料
基本的な参考資料については、次のnoteをご確認ください。
「ゴーストに似たもの」と感じたコンテンツなどのまとめ(個人的な判断です)
ここからは上のnoteで拾えなかった、個人的に影響を受けたり、印象に残った資料・記事になります。
たぶん、これからもゆっくり増え続けます(今すぐリンクを取り出せないところがあるため)。
にゃるら氏に「NEEDY GIRL OVERDOSE」100万本突破を記念して聞く,これまでのニディガと,これからの美少女ゲーム
TVアニメ「16bitセンセーション ANOTHER LAYER」ニディガコラボ記念。にゃるら氏に聞く,美少女ゲームはどこへ行くのか