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存在という呪いと、言語による存在の召喚について

 早口で喋るオタクが好きだ。好きなものへの情熱が溢れ出て止まらない感じ。楽しいので、矢継ぎ早に質問を投げかけると、とても早く戻ってくる。
 アニメオタクでも、野球オタクでも、対人コミュニケーションオタクでも何でもよく、その人のリソースが偏っていればいるほど嬉しい。


 人生ゲームは楽しめるのに、人生は楽しめないのはなぜか?と考えたとき、さすがにゲームでも同じものを数十年やらされたら嫌になるし、嫌になるのは構造的にしょうがないことだと思っていた。配られたカードで勝負するしかないと思い込んでいた。

 しかし最近は、人に質問を投げかけて返答を見ることで、違う人間の頭と身体を疑似体験することができるとわかり、ちょっと楽しくなってきた。生まれ直さなくても違うゲームができるのは嬉しい。
 ここでいう頭と身体というのは、認識されたものと認識するものである。外にある膨大な情報を受け取るのが身体で、頭には濾過された物が残る。例えばタモリを見る時、髪型とか服装とか肌とかを身体は知っているはずなのに、頭にはグラサンだけが残る。


 頭は社会化されていると均質であったりするが(社会フィルターは社会をやる人全てにかかるので)、身体は位置が違うので必ず違う(物質は同じ場所にはないので)。社会フィルターを取り除くと、その人固有の情報が頭から出てくる。とても楽しい。
 フィルターを取り除きすぎてしまうと、多くの情報を処理できずに潰れてしまうこともあるとわかったので、本当に取り除いてもよいのか考えて動かなくてはならないのは大変だなあと思った。


 自分は社会が見えないので、社会フィルターがかかってる人を見ると「なんで?」と聞いてしまうクセがある。社会のフィルターは未知の世界なので、フィルターの話をされるのも楽しい。フィルターは便利ということがわかったので、最近少し導入した。楽しい。


 概念に名前をつけてうまく使うと呼び出せるっぽいことがわかった。名前をつけるのは存在の第一歩で、言葉によって輪郭線が作られるのだ。言葉を使えば、モノでも人でもそれっぽさがあるものを再現できる。個人情報を知ることは人を作ることに繋がり、だから個人情報保護法ができたのだなあと思った。その人が自主的に情報を場に出すことを選んだのなら良いが、基本的に情報から属人性は排除して、出すにしても場の範囲は正確に測っておいた方が良さそう(名前を売る場合は属人性を持たせたほうが良いが)。

人間の資本が増えます。よろしくお願いします。