わかりあわなくてもいい感情を、記録しておくことについて アクト・オブ・キリング感想
アクト・オブ・キリングという映画を見た。
ざっくりとした内容としては、インドネシアで起こった”共産党員”の大虐殺を起こした殺人者に声をかけ、当時の再現映画を作り上げていく様子をドキュメンタリー映画化したものである。
この映画のいいところは、いわゆる「加害者」の声をそのままビデオに収められたところにあると思っている。ひとを拷問して殺すこと、それは明らかな罪であると世界中で規定されている。しかし、この「加害者」の残虐行為は、「世界において悪を働いてやるぞ!」という思いから来たわけではない。そこに生きる人間の生存行為が、たまたま暴力的であった、ということに近い。家業がヤクザ(プレマン)だった。それだけ。
この映画のメインキャストたちはこう言う。
「ダフ屋をやっていたが、共産党員はアメリカ映画を禁止したがった。ハリウッド映画は非常に人気だったから、禁止されるとおまんまの食い上げになる」
「殺し方は映画を参考にした。首を切ると出血が多すぎて掃除が大変だったので、針金で首を締めるやり方にした」
「華僑を殺しまくった日、付き合ってる女の親が華僑だということがわかった。殺したよ。」
「美人の女は全員犯した。そいつが14歳くらいだと具合がいいね」
「俺たちの殺人はジュネーブ条約に違反してた?歴史は強者が作る。国際法に違反してたとしても、明日からは俺たちのジャカルタ条約に従うだけさ」
「ハーグ裁判所に呼ばれるなら行くさ。有名になりたいからね。連れてってくれよ」
平和を愛する人々は、この人々の気持ちを理解する必要はない。ただ、平和と人権が存在し得ない場所において、このような感情が率直な感情として存在していたことを、記録することに意味がある、と考えている。
この映画は、映画の人物として演技させている部分と、当時の率直な気持ちを吐露させている場面とを意図的に混合させている。だから、登場人物の(平和的現代人から見た)非倫理的部分を、あくまで虚構の事柄と解釈することもできるし、しないこともできる。
この映画のメインキャストは、最後に殺しを後悔するような描写をする。だから、”道徳的”な人々は、これを「加害者の悔悛的作品である」とみなすこともできる。しかし、カッコイイ映画の悪役のような役割を自らも行っていたという自負(もしくは自分への言い訳)を、少なくとも映画撮影前には抱いていたというのは確かだろう。
道徳の教科書に載せられないような気持ちがこの世に存在していたことを、作品として保存できること、それは、エンターテイメント作品の重要な意義なのだと、自分は思った。
人間の資本が増えます。よろしくお願いします。