【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#21 渡辺久信編
3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、残り1ヶ月あまりとなりました。ここでは出場予定のライオンズOBたちの、一味違ったプロフィールを紹介していきます。
渡辺 久信(わたなべ・ひさのぶ)
投手 右投げ・右打ち 1965年8月2日生まれ
ライオンズ在籍:1984~97年(選手)、2004~13年(監督、コーチ)
通算成績:389試合 125勝 110敗 27セーブ 防御率3.67
背番号:41(84~97年)、74(04~07年)、99(08~13年)
前橋工高では、1年夏から甲子園で登板。3年夏は群馬県大会の決勝で、延長11回裏サヨナラの押し出し四球で敗れたものの、全12球団のスカウトが挨拶に訪れていた超高校級右腕だった。
ドラフト会議では、高野光(東海大-ヤクルトスワローズ)を抽選で外したライオンズが1位指名。いわゆる短ラン、リーゼントで指名会見に登場したかと思えば、アリゾナの1軍キャンプに帯同予定が、高校の単位が足りずに補講のため参加できずと、いきなり“大物ぶり”を発揮した。
84年のパ・リーグは阪急ブレーブスが独走。早々と廣岡達朗監督が若手への切り替えを図るなか、頭角を現したのが渡辺だった。持ち球は真っ直ぐと落差のあるカーブだけだったが、6月下旬に1軍昇格。敗戦処理で登板した2試合で4イニングを無失点、7奪三振とアピールして、先発のチャンスをつかむ。
8月18日ロッテオリオンズ18回戦では183球を投じながら、最後までひとりで投げ抜き、2失点の完投勝利でプロ1勝目をあげてみせた。
翌年には開幕ローテーション入りして、4戦4勝していたのだが、抑えの森繁和が防御率5点台といまひとつの状態だったため、5月中旬から抑えに配置転換。今度は6戦6セーブと起用に応えてみせる。同じ高卒2年目だった津野浩(日本ハムファイターズ)、加藤伸一(南海ホークス)と「19歳トリオ」と呼ばれ、3人そろってオールスターにも出場した。
プロ3年目は16勝して最多勝。翌年に右肩を痛めるが、フォークを覚えて投球の幅を広げると、88年には2度目の最多勝を獲得する。この年から3年連続二桁勝利。近鉄バファローズのラルフ・ブライアントに痛恨の一発をくらい“戦犯”扱いされたこともあったが、東尾修引退後のレオのエースとして、阿波野秀幸、野茂英雄(バファローズ)、西崎幸広(ファイターズ)といったライバルたちと、鎬を削った。
日本シリーズでは88、90、92、94年と、第1戦に4度先発。93年の第3戦まで続いた6連勝は、シリーズ記録となっている。
幻のノーヒットノーランと言えば、西口文也の専売特許だが、じつは渡辺のほうが先輩になる。90年5月9日のファイターズ戦(東京ドーム)で先発した渡辺は、9回まで無安打投球を続けたが、打線の援護もなく、0対0のまま延長戦へ。10回表、11回表もライオンズ打線は無得点、すると渡辺は11回裏1死から、この試合37人目のバッター小川浩一にライト前ヒットを許し、大記録を逃してしまった。
ただ、すべて未遂に終わった西口に対して、渡辺の場合は6年後の6月11日、イチローを擁したオリックスブルーウェーブ打線を相手に、史上63人目、74度目のノーヒットノーランを達成している。
先発投手は完投するのが当たり前、球数が150を超えることも珍しくなかった時代。年齢が30歳に近づくにつれ、酷使の代償が身体に現れていく。なかでも腰痛には苦しめられ、おのずと球威は衰えていった。
97年スワローズとの日本シリーズ第3戦、3対3の同点で迎えた8回裏、東尾監督はプロ14年目で初めてシーズン0勝に終わっていた渡辺を、マウンドへと送り込む。
打席には4番の古田敦也。初球は空振り。続く2球目、キャッチャー伊東勤の要求は「フォーク」だったが、神宮球場にモヤが立ち込めるなか「サインが見えなかった」と、投じた内角寄りの143㎞/hのストレートは、左中間スタンドへ弾き返される決勝ソロに。結局ここから3連勝したスワローズが日本一に。渡辺久信がライオンズのユニフォームを着て投げる、最後の登板となった。
32歳で自由契約となった渡辺は「野村克也監督の野球が学びたい」と、スワローズに移籍するが、1勝しかあげられず、1シーズン限りで再び自由契約となる。
このまま引退、解説業の話もまとまりつつあったが、かつてのチームメイト郭泰源の誘いで、台湾プロ野球「嘉南勇士」の投手コーチとなる。
言葉の壁があるなか、口で説明するより実際に身体でやって見せたほうが早いと、みずからマウンドに上がると、18勝をあげてシーズンMVPに輝くことになる。渡辺自身この台湾で過ごした時間が、その後の「指導者としての原点」になったと話している。
04年、2軍投手コーチとしてライオンズに復帰。08年に1軍監督に就任すると、「No Limit!」をスローガンに、栗山巧、片岡易之、中村剛也、涌井秀章、岸孝之といった若手選手を存分にプレーさせ、見事日本一に輝いた。現状、これがライオンズ最後の日本一となっている。
監督退任後は、球団SD(シニアディレクター)、GM(ゼネラルマネージャー)として、さまざまな施策を打ち出し、常勝ライオンズの復活に向けて奔走している。
主なタイトルなど
最多勝利 3回(86、88、90年)
最高勝率(86年)
ベストナイン(86年)
ゴールデングラブ賞 (90年)
オールスター出場6回(85、86、88~90、92年)
正力松太郎賞(08年)