カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#59 田代将太郎編
田代 将太郎(たしろ・しょうたろう)
外野手 左投げ・左打ち 1989年12月13日生まれ
ライオンズ在籍:2012~17年
通算成績:241試合 165打数 29安打 打率.176 2本塁打 16打点
背番号:61(12~17年)
当日所属:TEAM SEIBU
札幌市に隣接する北海道石狩市の出身。東海大四高時代に目立った実績はなかったが、八戸大(現・八戸学院大)の体験練習に参加したときの、スイングスピードの速さが際立っていたという。
50m5.8秒の俊足と、遠投110mの強肩で、大学では1年春のリーグ戦からベンチ入り。2年の春にはレギュラーをつかみ、春秋続けて外野手部門のベストナインに輝いている。
3年生のときの全日本大学野球選手権では、2番センターが田代、1年先輩の秋山翔吾(現・広島東洋カープ)が4番ライトに入り、同じく1年先輩の塩見貴洋(元東北楽天ゴールデンイーグルス)がエースだった八戸大は、準々決勝で北海道大学と対戦する。
3対3の同点で延長戦に突入した熱戦は、14回裏1死から、この試合7打席目に入った田代が、右翼ポールを直撃するサヨナラホームラン。秋山と塩見の視察に訪れたスカウト陣に「八戸大に田代あり」を、強烈にアピールした(ちなみに八戸大は、次戦の準決勝で東洋大に敗れるのだが、相手にはのちにライオンズでチームメイトになる林崎遼がいた)。
11年のドラフト会議で、5位指名されてライオンズ入り。プロ1年目の6月下旬には1軍に呼ばれて、5試合に出場したのだが、出番は代走と守備固め。打席に入るチャンスはなかった。
続く2年目の13年はシーズン序盤にケガをして出遅れたものの、イースタンでは47試合に出場して打率.297の結果を残すと、9月に1軍昇格。9月14日千葉ロッテマリーンズ戦の9回裏に代打で起用されると、抑えの益田直也からプロ初打席で初安打。キッカケになるかと思えたが、翌シーズンは1軍出場なし。初めて開幕1軍入りした16年シーズンも、4月下旬にファームに落ちると、1軍に戻ることはなかった。
入団5年間で計3安打。燻っていた田代に、最大のチャンスが訪れたのは17年。この年就任した辻󠄀発彦監督は2月の練習試合から、外野の一角で田代を使い続ける。田代のほうもオープン戦でチーム3位となる打率.270をマークする。金子侑司の離脱もあって、プロ6年目で初の開幕スタメンの座をつかんでみせた。
開幕後は辻󠄀監督のガマンの起用が続くなか、4月23日北海道日本ハムファイターズ戦だった。1回裏の秋山翔吾の先頭打者本塁打でスタートした試合は、7回裏ライオンズリードのまま、途中守備から試合に入っていた田代に打順がまわる。谷元圭介の初球を久々にジャストミートした当たりは、ライトスタンドへ飛び込む3ラン。記念すべきプロ1号は、大学の先輩である秋山との「八戸大アベックアーチ」となった。
続く8回裏には、秋山がこの試合2本目となるホームラン。試合後のお立ち台で、田代との揃い踏みについて聞かれた秋山は「遅せーよ」と、らしい言葉で、苦しんできた後輩を祝福した。
だが、このホームランを最後に、田代のバットから快音が消える。このあと24打席連続ノーヒット、打率.071でシーズン終えると、戦力外を通告される。6年目のプロ1号本塁打が、ライオンズのユニフォーム着て打った最後のヒットとなった。
このまま野球を辞めることも考えたが、周囲の励ましもあって合同トライアウトに参加すると、東京ヤクルトスワローズからのオファーが届く。
すると、チームで一番のスピードを買われて、代走や守備固め要員として開幕1軍入り。次第に代打での起用も増えていくと、31打数10安打で打率.323、1本塁打。移籍1年目だけで、ライオンズ時代の6年分を超える数のヒットを打った。
また、この年の交流戦では、メットライフドームでのゲームに代打で登場。空振り三振に倒れたが、ライオンズファンからも大きな拍手が送られた。
スワローズでは、20年までの3年間プレー。合同トライアウトに参加したが、獲得に乗り出す球団はなく、現役引退を決意する。引退後は、生命保険会社に勤務しながら、Youtubeでのゲーム配信が話題になり、テレビのバラエティ番組に出演したこともあった。昨年からはライオンズ・ベースボールアカデミーのコーチを務めている。
「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)