【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#17 駒崎幸一編
3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、約1か月半となりました。
ここでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。
駒崎幸一(こまざき・ゆきいち)
外野手 左投げ・左打ち 1959年8月31日生まれ
ライオンズ在籍:81~90年途中
通算成績:174試合 238打数 58安打 打率.244 本塁打3 打点19
背番号:29(81~86年)、20(87~89年)、30(90年途中まで)
地元埼玉県出身。1977年に川口工業高が、夏の甲子園に初出場したときの主軸バッター。当時からプロの注目を集めていたなか、浦和市(現さいたま市)を活動拠点とする社会人野球の日本通運に入社する。
日本通運では通算30本塁打。国際大会「インターコンチネンタルカップ」で日本代表の4番を任された長打力が買われ、1980年ドラフト外でライオンズに入団。高校、社会人、プロと、すべて埼玉の球団でプレーすることになる。
のちにライオンズでチームメイトになる辻󠄀発彦は日本通運の1年先輩にあたるのだが、駒崎のほうが4年早いプロ入りとなった。
1年目からイースタンでは打率.303、リーグトップの41打点をマーク。将来性を見込まれて、83年に秋山幸二、安部理らと、米マイナーのカリフォルニア・リーグ1A「サンノゼ・ビーズ」に野球留学。翌84年には1軍で60試合に出場して、立花義家、西岡良洋、岡村隆則らと、外野のポジションを争った。
駒崎と聞いて、当時を知る野球ファンが思い出すのが、フジテレビ「プロ野球ニュース」の人気企画「珍プレー好プレー」だ。
84年5月29日南海ホークス戦の2回裏、8番でスタメン出場した駒崎は、プロ4年目のうれしい初安打となるツーベースで出塁する。1死二・三塁と広がったチャンスで、続く9番行澤久隆がリードを広げるセンターへの犠牲フライ。二塁ランナーの駒崎もタッチアップで三塁へ進塁する。
この間に、センターが捕球したボールは、ショートを中継して、サードの立石充男へと転送されていた。
三塁に到達した駒崎は、プロ初安打の興奮もあったのか、ボールの行方に気づいていない。三塁ベースコーチの近藤昭仁からの「(イニング、点差などから)無理してタッチアップしなくても良かったぞ」の声にうなずくと、ベースを離れ1歩、2歩とリードを広げる。と、その瞬間、ダッシュで近づいてきた立石が、駒崎の足元にタッチして、判定アウト。まんまと「隠し球」が成功した。
いまでこそ、グラウンド上のあらゆるプレー、ベンチ内の仕草までが切り取られ「パ・リーグTV」でアップされるが、当時は中継機材の台数や性能に限界があり、隠し球の撮影・録画はひじょうに難しかった。「プロ野球ニュース」のメインキャスターだった佐々木信也は「隠し球を撮影したカメラマンには、ポケットマネーで賞金を出すよ」と、スタッフの士気を高めていたほどだ。
このサード立石の「隠し球」が成功するまでの名演技、すべてのプロセスを収録した貴重な映像は、くり返し放送されて、アウトになった駒崎の名前も広く知られるようになったのだ。
85年にはイースタンで本塁打王と打点王の2冠。86年にもイースタン最多記録となる3度目の打点王を獲得するなど、ポテンシャルの片鱗をのぞかせたが、1軍定着には至らず。
90年シーズン開幕直前の3月下旬、西武ライオンズから駒崎、青山道雄、秋元宏作の3人、横浜大洋ホエールスからは村岡耕一、河野誉彦のふたりが交換要員となった、3対2のトレードで移籍。翌91年限りで現役引退した。
現在は所沢市の野球教室「ヒーローズ・ベースボールアカデミー」でコーチを担当。自分に続く、埼玉の球児たちの育成に携わっている。
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