【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#6 石毛宏典編
3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」。チケット即完売となったファン待望の一戦まで、2ヶ月を切りました。
このページでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
内野手 右投げ・右打ち 1956年9月22日生まれ
ライオンズ在籍:81年~94年
通算成績:1796試合出場 6472打数 1833安打 打率.283 236本塁打 847打点
背番号:7(81~94年)
1981年の開幕戦に1番ショートでスタメン出場すると、ロッテオリオンズのエース村田兆治から、いきなり中安、右安、プロ1号となる右越ソロ。4打数3安打2盗塁の衝撃デビューを果たす。ちなみに、ライオンズで開幕戦に3安打以上した新人、開幕戦で本塁打を打った新人は、どちらも石毛ひとりしかいない。
そのバッティングは失速することなく、パ・リーグ新人の歴代最高打率となる.311をマーク。21本塁打、25盗塁もマークして、堂々の新人王を獲得する。
この年セ・リーグで新人王に輝いたのは、読売ジャイアンツのドラフト1位ルーキー原辰徳だった。石毛と原、ふたりの活躍は、前年に長嶋茂雄が監督を辞任、王貞治が現役を引退していたプロ野球界に、新時代の到来を感じさせた。
翌82年、新監督に就任した廣岡達朗から「下手くそ。それでよく新人王が獲れたな」と酷評され、当初は反感を覚えたものの、基礎と理論の大切さを再認識。若きチームリーダーに成長していく。
左ヒザの故障の影響で、87年からサードへコンバート。90年以降は、打順も入団当初の1、2番から、6番などのポイントゲッターを任されることが多くなったが、ライオンズに在籍した14年間すべてでシーズン規定打席と100安打に到達。二桁本塁打12回、二桁盗塁11回、ゴールデングラブを10回と、走攻守に渡ってチームを牽引する。
廣岡監督時代の3度のリーグ優勝、森祗晶時代の8度のリーグ優勝すべてに貢献。日本シリーズには通算67試合に出場。通算69安打は長嶋茂雄の91安打に次ぐ、歴代2位タイとなる。「ライオンズ黄金時代」の象徴的存在だ。
88年、中日ドラゴンズとの日本シリーズ、ライオンズの3勝1敗で迎えた第5戦。1点を追いかける9回裏の先頭で打席に入ると、打った本人が「一生忘れられない」と語る同点ソロ。それでいて、延長11回裏無死1塁でまわってきた次の打席では、「当然の策」と森監督と石毛の考えが一致しての送りバント。日本一を決める伊東勤のサヨナラ打をお膳立てした。
ここ一番で主役にも脇役にもなれる、頼れる勝負師。この2打席に「西武の強さ。石毛のスゴさ」が集約されていると、絶賛された。
日本シリーズのお立ち台で工藤公康と掛け合い、爆笑を誘ってみせたり、謹慎明け最初の登板となる東尾修を、守備に就く内外野全選手をマウンドに集めて出迎えたり。発信力、行動力も備わった「ミスターレオ」だった。
94年オフ、フロントから森の後任監督の就任を要請されるが、現役にこだわり、福岡ダイエーホークスへFA移籍。2年間プレーを続け、40歳で引退する。
ホークス2軍監督、オリックスブルーウェーブ1軍監督を務めたが、いずれも短期間で解任されている。その後は、四国独立リーグの設立に奔走、日本プロ野球OBクラブの常務理事を務めるなど、スポーツ振興、地域振興に、情熱的に取り組んでいる。
退団時の経緯があって、ライオンズとは疎遠となっていた時期もあったが、09年に「ライオンズ・クラシック」のエグゼクティブプロデューサーに就任するなど、近年ベルーナドームに来場する機会が増えている。今回の「LEGEND GAME」の開催会見にも出席。東尾修、渡辺久信GMと、現役時代と変わらない軽妙なやりとりで、会場を盛り上げていた。
・主なタイトルなど
最優秀選手(86年)
最優秀新人(81年)
ベストナイン 8回(81~83、85~87、92、93年)
ゴールデングラブ賞 10回(81~83、85~88、91~93年)
日本シリーズ最高殊勲選手(88年)
オールスター出場 14回(81~94年)