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【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#18 森博幸編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、約1か月半となりました。

ここでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。

森 博幸(もり・ひろゆき) 

内野手・外野手 左投げ・左打ち 1963年5月29日生まれ
ライオンズ在籍:87~97年(選手)、2007~10年(コーチ)
通算成績:374試合 564打数 155安打 打率.275 15本塁打 80打点
背番号:75(87年)、14(88年)、62(89年)、20(90~97年)
    89(07~10年)

 
新日鐵君津では通算40本塁打した左打ちのパワーヒッターで、85年のドラフト会議で、西武ライオンズから4位指名される。

このときのドラフト1位だった清原和博は「第1志望がジャイアンツ。意中じゃない球団から指名されたときは日本生命入り」と言われていた。そのため当時の新聞紙上には、同じ強打者タイプの一塁手の森の指名について、清原が獲得できなかったとき用の保険といったニュアンスで書かれていた。

ただ、清原のライオンズ入りが決まったことで、森のほうが入団に難色。次のシーズンも社会人でプレーを続けることを選択する。

この年、都市対抗野球で川崎製鉄千葉に補強された森は、2試合連続本塁打を放つ活躍。次のドラフト会議で他球団からの指名を待つこともできたが、ライオンズの交渉権が切れる直前(※)、ドラフトが開催される3日前に、およそ1年遅れでの入団が発表される。
 (※)現在のルールでは、社会人野球でプレーする選手(日本野球連
  盟所属選手)を指名したとき、ドラフト会議翌年の1月末までに契
  約が締結されなければ、球団の交渉権は失われる

プロ1年目の87年は、米カリフォルニア・リーグの「サンノゼ・ビーズ」に野球留学。3年目の89年に1軍デビュー、出場試合は少なかったが、3割を超える打率をマークする。

また、この年のシーズン終了後の11月に、セ・パ両リーグ誕生40周年を記念して行われた、入団3年目以内の選手による「フレッシュスターゲーム」において、4回裏に決勝のソロ本塁打を打って、パ・リーグチームの勝利に貢献。MVPを獲得している。

ただ、当時のライオンズは、DHを含めた野手9つのポジションのうち、レフト以外の8つは完全にレギュラーが固定されており、森の出番は代打かレフト、あとは清原が欠場したときのファーストくらいに限られた。

そんな状況にあって、91年には一時4割を超えるハイアベレージで、チームを開幕ダッシュに導く。9月8日、近鉄バファローズとの首位攻防戦では、1点を追い掛けるライオンズの8回表2死二塁のチャンスに代打で登場。野茂英雄から「この一発は一生忘れない」と語った、逆転2ランホームランを放つなど、自身最多の86試合に出場。打率.303、7本塁打と、大いに存在感を発揮した。

東尾修監督就任1年目だった95年にも、代打で26打数8安打と1本塁打と、3割を超える成功率をおさめている。

また96年5月15日のファイターズ戦、6番指名打者で出場した森が、4回表に東京ドームの右中間へ打った大飛球は、フェンスを越えたかどうか微妙なところではね返って、グラウンドへ。

二塁塁審はぐるぐると手をまわし、ホームランの判定。これにファイターズの上田利治監督が抗議して、塁審が球審に意見を求めたところ、フェンスオーバーしていない「インプレ―」だと、判定が覆ってしまう。

今度はこれに激怒した東尾監督が猛抗議。まだリプレイ検証のなかった時代だ。29分間もの中断ののち、最終的にくだった判定は「三塁打」。打った森が二塁まで到達していたため「二塁打」と「本塁打」の間をとっての折衷案だった。

森のプロ野球人生3本目にして最後の三塁打は、図らずも、こんな珍判定によって誕生していた。

97年シーズンを最後に現役引退。四国アイランドリーグでコーチを務めたあと、07年から10年までライオンズの打撃コーチを担当した。

森 博幸 年度別成績


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