カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#42 後藤光貴編
後藤 光貴(ごとう・みつたか)
投手 右投げ・右打ち 1974年8月27日生まれ
ライオンズ在籍:2000~05途中、06年
通算成績:87試合 23勝16敗 防御率3.79
背番号:50(00~05年途中)、41(06年)
当日所属:TEAM SEIBU
福井県立鯖江高では5番キャッチャーで、高2秋の県大会で優勝。新日鐵堺に入社してすぐ、ショートへコンバートされるが、翌年限りで野球部が休部。95年からは大和銀行でプレーする。在籍3年目の97年、不況の影響で新人が採用できず、チームは投手不足に。そこで強肩を買われて、今度はピッチャーに転向する。この決断が、野球人生を大きく変えることになる。
翌年にNTT関西(現・NTT西日本)の補強選手として、夏の都市対抗野球に出場。自チームでも秋の日本選手権で2試合に登板して、評価を高める。本格的に投手を始めてわずか2年で、この年のドラフト会議でライオンズから5位指名されるのだ。
ところが、後藤が指名される直前に、同じ大和銀行のピッチャーである水田章雄が、福岡ダイエーホークスから5位で指名されていた。社会人野球の同じチームから複数の投手を指名する場合は、事前にチームと日本野球連盟の承認を得なければならないと、野球協約で定められている。ところが、その手続きを怠っており、後藤の指名は無効となってしまう。
失意に追い打ちを掛けるように、翌年5月の試合中、打球が顔面直撃、鼻骨、左眼下骨折で失明の危機に陥る。それでも腐らずに這い上がり、この年の都市対抗野球では、日本生命の補強選手に選ばれる。波乱万丈の末、この年のドラフトで7位指名したライオンズに入団することになる。
ルーキーイヤーの1軍登板は2試合だけだったが、イースタンでは10勝をあげて最多勝となる。プロ2年目となる01年7月27日の日本ハムファイターズ戦、10回表2死1塁から6番手として登板した後藤は、オバンドーを1球で遊飛にうち取ると、その裏ライオンズは松井稼頭央のタイムリーでサヨナラ勝ち。史上2人目の“1球プロ初勝利”となった。
先発、リリーフ問わず、この年35試合に登板して、防御率2.49。落差のあるチェンジアップやフォークを武器に、83イニングで97三振を奪い、9イニング換算の奪三振率は10.52と、この年パ・リーグ奪三振王だった松坂大輔の8.01を上回った。
続く02年は、自身の28歳の誕生日だった8月27日に、千葉ロッテマリーンズ打線を3安打に抑えて、プロ初完封勝利をあげるなど、8月に4戦4勝する活躍。シーズン7勝をあげて、チームのリーグ優勝に貢献した。
プロ4年目となる03年には、開幕から先発ローテーション入り。得点圏に走者を置いた場面での被打率が.155と、粘り強いピッチングを続けて、初めてシーズン規定投球回に到達。初の二桁勝利となる10勝をマークする。ドラフト制以降、ライオンズに入団したピッチャーのなかで、7位以下の指名順位で二桁勝利をあげたのは、後藤光貴ひとりだけだ(ドラフト外は除く)。
プロ入り後、最高の成績となったのだが、シーズンの後半に右肩を痛めてしまっていた。回復に時間が掛かり、翌04年は、わずか6試合の登板に終わってしまう。05年の開幕直前には、河原純一との交換トレードで、読売ジャイアンツへ移籍する。
移籍先でも、わずか5試合の登板にとどまると、オフには金銭トレードでライオンズに復帰する。だが、プロ7年目で初めて1軍登板なくシーズンを終えると、このオフ戦力外となり、現役を引退する。
引退後はスカウトに就任して、近畿地区を中心に担当。増田達至、金子侑司をはじめ、今年の新入団選手では上田大河(大阪商業大)、木瀬翔太(北嵯峨高)の獲得に尽力した。
また22年夏、兵庫県代表の社高のキャプテンとして、甲子園に出場した後藤剣士朗二塁手は、光貴の次男。現在は、国士舘大学の野球部に在籍しているそうだ。
「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)