【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#7 松沼博久編
3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」。ファン待望の一戦まで、2ヶ月を切りました。
このページでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。
松沼博久(まつぬま・ひろひさ)
投手 右投げ・右打ち 1952年9月29日生まれ
ライオンズ在籍:79~90年(選手)、2002~03年(コーチ)
通算成績:297試合 112勝94敗1セーブ 防御率4.03
背番号:15(79~90年)、77(02~03年)
茨城・取手二高時代の2年秋に、木内幸男監督から命じられ、ショートから投手に転向。オーバースローではストライクが入らず。内野手のスローイングの要領で、腕を下げたほうがスムーズに振れるからと、転向命令の1週間後にはアンダースローで投げていた。
東洋大卒業後に入社した東京ガスでは、78年の都市対抗野球1回戦の丸善石油戦で1試合17奪三振、7者連続奪三振の、いまも破られていない大会記録を樹立。三振の獲れる「アンダースローの本格派」だった。
いわゆる「江川事件」によって、この年のドラフト会議をボイコットした読売ジャイアンツと、経営権が譲渡されたばかりの西武ライオンズとの間で、弟の雅之を含めた、激しい争奪戦となったが、根本陸夫監督からの「手伝ってくれ。2人とも1軍で使うよ」との言葉が決め手になり、兄弟そろってライオンズ入りすることになる。
埼玉移転直後で、練習環境も満足に整っていなかったチームは、打てず、守れずで、開幕から2分けを挟んでの12連敗。ようやく15試合目に、新生ライオンズの記念すべき初勝利をあげたのが、新人の松沼博久だった。
その後も連敗に次ぐ連敗で、チームは前期・後期いずれも最下位。年間130試合で45勝しかできなかったなか、ひとり気を吐いた松沼はチームトップの16勝をあげて、新人王を獲得する。
プロ1年目の早い段階から、本人の知らないうちに、登録名が「松沼兄」に。球場内のスコアボード表示やウグイス嬢のアナウンス、新聞表記も「松沼博」ではなく「松沼兄」だった時期がしばらく続いた。
松沼の登板試合では野村克也がマスクをかぶるケースが多く、1年目の16勝のうち、9勝が野村とのバッテリーであげたもの。翌80年、6月下旬から6連敗、2カ月以上勝てずにいた松沼が復活の勝利をあげたときも、キャッチャーは、久々に先発起用された野村だった。
ちなみに松沼兄弟のことを、最初に「兄やん」「オト松」と呼び始めた名付け親も、野村説が有力なのだそうだ。
「兄やん」の愛称と同じく、すっかり代名詞になっている口ヒゲを生やしたのは、じつは入団7年目だった86年から。この年4年間続けていた二桁勝利がストップ。渡辺久信、工藤公康ら若手投手が台頭するなか「このままでは、自分の存在が忘れられてしまう。何か特徴を残して目立たないと」との考えからだった。
レギュラーシーズンでの開幕投手こそなかったが、日本シリーズでは82年、83年、85年と、第1戦の先発投手を3度任されている。それだけ勝負度胸が買われていたのだろう。83年ジャイアンツとの日本シリーズでは、日本一が懸かった第7戦の前日に行われたミーティングで、廣岡達朗監督が「目をつむれ。明日先発したい投手は手をあげろ」と言ったところ、ひとり手をあげたのも松沼だった。
日本シリーズでは通算10試合に先発しているが、これは渡辺久信と並ぶ、ライオンズの球団最多タイ記録だ。
90年に現役引退。この年の日本シリーズでは、ジャイアンツ相手に4連勝。松沼の出番はなかったが、第4戦の終了後、チームメイトの手により惜別の胴上げが行われた。
同じサブマリンの與座海人の背番号が、今シーズンから15へと変更された。その際、與座は渡辺GMから「ライオンズのアンダースローとしての大事な番号なんだよ」と聞かされたという。チームの魂は、こうして受け継がれていく。
今年のライオンズ戦中継で、兄やんが與座の投球について、どんな解説をするのか(喜びのあまり、解説にならないかもしれないが…)楽しみでならない。
・主なタイトルなど
最優秀新人(79年)
オールスター出場 5回(79、80、83、85、89年)
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