【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#5 山崎裕之編
3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」。チケット即完売となったファン待望の一戦まで、2ヶ月を切りました。
このページでは、出場が予定されているライオンズOBたちを、ひとりずつ紹介をしています。
もしかしたら、今後オフィシャルのプログラムなどが販売・配布されるかもしれませんので、ここでは一味違ったエピソードや記録などを中心に、お楽しみください。
山崎裕之(やまざき・ひろゆき)
内野手 右投げ・右打ち 1946年12月12日生まれ
ライオンズ在籍:79年~84年
通算成績:2251試合出場 7845打数 2081安打 打率.265 270本塁打 985打点
背番号:2(79~84年)
1965年、東京オリオンズに入団。プロ3年目にレギュラーを獲得して以降、12年連続でシーズン規定打席を達成するレギュラー内野手だったが、二塁塁上での交錯プレーによって負ったヒザのケガもあり、78年オフにトレード候補として名前があがるようになる。
複数の候補があったなか、年が明けた79年1月、この年から埼玉へ本拠地を移すライオンズとの2対2の交換トレードが成立。オリオンズから山崎と成重春生、ライオンズからは古賀正明、倉持明が新天地へ移ることに。埼玉出身の山崎にとって、地元への里帰り移籍となった。
元々はプロ入りに際して、11球団で争奪戦が繰り広げられた超高校級スラッガー。上尾高校に入学してすぐ1年生春の県大会で、県営大宮公園野球場のバックスクリーンにホームランを打ち「長嶋2世」と騒がれることになる。
佐倉一高時代の長嶋茂雄が3年夏の南関東大会で、同じ県営大宮のバックスクリーンに、当時「飛距離350フィート(約107m)」と報道された大ホームランを放っており、その当たりを彷彿させたのだ。
プロの世界では、的確なポジショニングによるか堅実な守備と、あらゆる打順で求められた役割をこなす、職人気質の「いぶし銀」プレイヤー。移籍1年目の79年こそ、腰痛やケガの影響で79試合の出場にとどまったが、80年以降はセカンドを守り続ける。
食生活などの厳しい管理で知られた廣岡達郎監督が「山崎ほど自分の健康管理を気遣っている選手はいない」と言ったほど。石毛宏典をはじめ、当時の若手選手にとっては、まさに生きた手本。内野の要だった。
「隠し球」の名手としても知られており、二塁で走者をアウトにするだけでなく、セカンドの山崎がボールを隠し持っておいて、一塁ランナーがリードした瞬間、ファーストの片平晋作に送球して刺したケースまであったそうだ。
当時はまだ中継機材の台数や性能に限界があり、隠し球の撮影はひじょうに難しかった。「プロ野球ニュース」のキャスター佐々木信也が「ライオンズの山崎、片平を狙っておけば、いつか撮影に成功するのでは」とコメントしたほど。その「職人芸」は一目置かれていた。
打つほうでは、そのイメージにはそぐわない、ホームランにまつわる派手な記録に数多く絡んでいる。79年10月3日の南海ホークス戦で、ライオンズ球団史上初めてとなる「逆転サヨナラ満塁本塁打」。
パ・リーグ史上9度しかない同一打者による「1イニング2本塁打」を2度達成(80年8月7日近鉄バファローズ戦の7回表、83年9月1日日本ハムファイターズ戦の8回裏)。
1981年 8月17日近鉄戦は、自身の先頭打者本塁打による1点だけで、1対0で勝利する試合となっている。
1983年9月18日、西武ライオンズ球場で行われた古巣オリオンズ戦で、史上18人目となる通算2000安打を達成する。これまでにライオンズ在籍時に2000安打を達成した選手が4人いるのだが、福岡時代を含め本拠地球場で偉業を達成したのは、山崎ひとりだけだ。
84年限りで現役を引退。その実績からすれば、コーチなど指導者のオファーが届いても不思議はないのだが、職人ならではのこだわりがあるのだろう。1度もユニフォームを着ることなく、忖度のない解説を続けている。
・主なタイトルなど
ベストナイン5回(69~71、74、80年)
ダイヤモンドグラブ賞 3回(77年、80、81年)
オールスター出場 11回(69、70年、72~77、80、81、83年)
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