かたはね II
視点転換
ここは富士の八合目あたりだろうか。鉄錆の映える柵が雲になるガスにまかれて垣間見えるその景色は個人的にとても好きだった。 湿気がまとわりつき幼虫が蛹を作る前の繭の糸をくくっている視界を想像できるからだ。滲んだ白とグレーが延々と広がるその景色は私を迎えてくれている気がした。遠近感もバグっている。多分ものすごく遠いところにある景色が近く感じ、時間は止まっているかすごくゆっくり動いている気がする。足元を雲が走ってゆくのを見とれてしまう。非現実に来たという感覚を小刻みに躍動させてくれる。
そこから富士山頂まではまだ少しあり、山頂到着は暗い早朝に成功した。0度と薄い酸素の空気の中で身体は冷え切っていた。長蛇のご来光を拝む人びとがうごめいて見えた。不思議と疲れはなかった。やがて太陽が出て私は手を合わせてみた。人は手をあわせるとき、何も考えていないのかもしれない。ただ巨大は力の全てを溶かすような光の出現に対して合掌したい衝動はごく自然なものなのかもしれない。 ご来光を見る頃には冷え切った身体と足の右の親指のしびれが一気にふんわりと温まった、だがしびれはまだ少し残っていた。辺りは濃いオレンジ色 マンデリンの香りがしそうなほどみずみずしく麗しいもので生命そのものだと大げさにも思った。 暗闇の立ち退きとの二層のグラデーションになっている空により身体中が甘く研ぎ澄まされた陶酔に包まれていた。空気は薄く酸欠状態につき余計にそう感じたのだろうと思う。
雲が鮮明に眼下に見え。陽が一帯に当たりこの世の場所ではないような時間が流れていた。陽が昇るにつれて一気に温まる感覚とともに視界の鮮明さもいっそう強まってすべてが見渡せている全能感があった。
太陽の力というものは凄まじい。 生命力を支える唯一存在ののエネルギーである。同時に私にとって太陽とは最も強い影を作るもので。その距離から遠くなるにつれ平等に光を認知させてくれる和らぎも思いおこした。血液の温かささそのもだった。生命を一瞬自由にさせてくれる感覚さえあった。 生命というものは影がつきものだ。いや、自らが動く時影も動く。それが生命の特徴だと思っている。死んでしまうと影は自ら動く事も出来ない。生命というものは影そのものでもあり「動かせる」ものではなく「動く」ものだと思っている。
その山頂では全ての影に命が与えられていた、平等に、頭上に遮るものは何もなかった。その違和感さへ当たり前に身体に、感覚にとりこめるの体験はきっと今の私にはこの山頂でしか得られないだろう。
ふと蝶の事を思う。 蝶は黒い羽と黒い影のまま彼岸の頃土に埋まってしまった。 そのことがなぜかとてもやるせなかった。 しかし私の中には濃く張り付いている蝶の影があり、日に日にそれは輪郭をしっかりと、そしてぼんやり膨張することを繰り返し生成されていく。この山頂という場所までその影を貼り付けながらも消えてはゆかないのだなと思った。思い出すことは遠くに浮かんだが気持ちは新しいゾーンに踏みこんでいた。そもそも富士山頂に登ろうなんてことは、ここ最近の一連の気持ちを変えたかったこにある。しかしますます濃く、疑問という影もまた自分と混ざっていくものであった。そして時たま発作的にドクンと脈打つのを感じるのだ。それは生命と呼んでいいのだろうか。 美しい片翅の翅脈を持った黒い影は今もかたくなに胸のあたりに投影される。自分そのものの中に、それがあることが不思議でたまらなかった。
下山道の砂走りを下り5合目まで戻る。山頂とは変わり「人間」であることを再び思い返されるような活気と人の流れに安心感を覚えたが、昼過ぎの帰りのバスの中で影はますます濃く存在を脈打つようなことを私は見て見ぬ振りさえしていたがなお大きく映し出されているようでならなかった。 私は思った。この胸の中の「蝶の死」という影と自分の生命としての影が重なった時のことを、もしかしたら密かに恐れていたのではないかと思った。
影と私の旅と言ってよいか、私の探求はそれでも続いてゆく。続いてゆくしかなかった。今日まで一体どのように生きてきたのかもあやふやになってゆくように何かが、あの感情のまま動いていないような気がしてならない。私は心らしいものを落としてしまったのかもしれない、いや、あの手のひらほど掘った穴に自分の何かを共に埋めてしまったに違いないといって等しいだろう。 「空虚」という二文字が腹の底からにじり寄るように湧いてくるのがわかった、いつの間にかのことであった。「あの日」から「自分の影」を取り戻さなければならないという使命感さえ感じ取った。
しかしなぜかこの今の状態がとても心地よいともわかった。 何者でもなく、何者も遠ざけ、ただ日記を綴り小さな旅をしていることで日々は満たされてゆく。 蝶が舞い吸蜜するように自然で、夜に消えてまた朝になると舞い戻るという短縮された時間に沿った生かされている自分の翅を再び獲得したように思えてきた。ただ影を取り戻した気にはなれず、どこか地表から浮いたままのような感覚は時たま気持ち悪くも心地よくも以前より脅迫的に感じ取るようになっていった。
一番良い方法で自分の「生きた影」を確認するには何が良いのかを常に考えていた。車のテールランプに映し出される点滅してはぼんやり闇に溶けるもの、昼の頂点の日差しの下、地へ突き刺さっていくような短い自分の鋭い輪郭の状態とどうのような状態が一番適切なのかと一日中考えては日記帳にペンを走らせた。日記とはいうもののほとんど行動記録のみである。思ったことはそのそばからするりとてから抜けてどこかへ行ってしまうようだったし特に記録をしたい感情や考えもなかった。
ただそこに生きていることの記録をしている。私はこれを「ライブ・レコーディング」と名付け、ひしひしと1日を埋めてゆくものとしてやがて欠かすことのないものとなっていった。
この手記にやがて惑わされながらも、未知である感情さえ探すようになることとも知らず。ただただレコーディングをしてくのだった。
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