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かたはね Ⅳ

犯人を探せ

ここにリンゴがあった。 このリンゴは輪郭にすぎないが言語によって繰り返された信号を発してもいた。
そしてやはり自分もそのようにして存在しているのだなと、丸くツヤのあるリンゴを持ちながらある実験をやってみることにした。

実験とは、つまり蝶を埋めた犯人が自分であったかどうか、疑似体験的なことをしない限り私の中で始まらないのであった。それは蝶を掘り起こすことにある。あの公園の片隅の蝶の食草と書かれたプラカードとロープの中の。。少し寂しい夕暮れとともに。

犯人は自分である場合、正しいと思われる行動の輪郭はネオン管のように軌跡を残してあの美しい蝶の翅脈のように道を作ってくれるだろうと信じている。
自分ではなかった場合、また蝶ではないものを埋めた場合、その時もまた翅脈のように光の軌跡はそこに立ち現れるだろう。

私はこれが正しいかどうかもわからずに仮定したままで自分が疑似体験をするという方法でやってみることにしたが、、。
しかし、怖くてできないのだ。この恐ろしい事件の幕開けを恐れてそのまま何日ものんびりと1日が経ってしまう。ライブレコーディングは362ページにもわたり、そして行動は依然決まった通りで代わり映えのしないものであった。

ある日この実験の思案や躊躇に嫌気がさして昆虫博物館へ行ってみようということにした。東京近郊の、規模は小さいがそこは温室があり蝶が自由に飛び回れるようドーム型の建築で設計されており、さながらユートピアのように演出されている年中暖かい施設だ。私はそこへ行ってみることでこの事件の手がかりがつかめるのではないかと思い足を向けた。
私は実験「ライブレコーディングに伴う重なる影の虚像実験」と名付けた。やはり行動には行動によって、何日も思い続けた分の歩数というものも必要であると思った。逆のぼってゆこう。そう思った。それは長い道のりでもたとえ富士を登ろうとしてもだ。
この大事件の凶悪犯人を私だと決めつける前にひとつひとつ逆戻りして考えて行く必要がある。手記、ライブレコーディングには直近で昆虫博物館のことが書いてある。私は早速電車で東京郊外のその場所へ向かった。
私は再び輪郭を追うことを自信を持った。
それはこの出来事が本当であるかどうかという事を、どうしても確かめなければならない使命感からできていた。もしかしたらそれ以外には理由はないかもしれない。


電車を乗り継ぎ西へ向かう中で風景が変わってゆく。木々が多く目につき、この雑木林の中には一体どんな命が光るのだろうと思いを揺らしていた。それは寂しさもありながらとても懐かしく心地よくもあった。
駅に着きいつもと違う土と山の近い風を感じる。思わず呼吸を止めては吐いて、空気とともに自分のもやがかかった部分を洗い流し、ここにあるはずの手がかりに敏感になろうと努めた。心を研ぎ澄ませたかったのかもしれないが、そう思いが巡るのは東京中心部から離れ、視界が開けた場所で緑の気配に包まれたこともあるかもしれない。
風が運ぶ樹や土の匂いを感じ何もかものに集中できる感じさえした。大げさだろうが構うことはない。何しろ「私」自身のことなのだから。。。

樹々の合間をぬって 補正されたアスファルトの道を少し行くと坂上に昆虫博物館という看板が見えてきた。「いらっしゃいませ」
アナウンスから声がかかったが人は見えない。私は入場料金をトレーに置き中へ入った。
あたりに人気はなかった。平日ということもあり今の混乱した流行り風邪の中では人出も少ないはずだ。好都合だった。
入ってすぐは小規模ながらの蝶や蛾、蜂や甲虫の標本と分布図が書いてあった。生態系を伴った各昆虫の繁殖までの一生を明記したプレートがそこかしこにあり、私は一つ一つ見入った。国内のアゲハ蝶の標本に行く前に、外国の蝶の標本も目に付いた。モルフォやトリバネ蝶、その他様々な素晴らしい色彩の蝶が展示されているが、国産の黒アゲハはあれどもそれからは何故かあの蝶と同一視できない何かがあった。色形はそうなのだが何しろ片翅しか見ておらず、下翅もろくに確認できず、何しろ表の黒さを見ていないのだからピンとこないのかもしれなかった。いや。待て、蝶の翅に裏表の概念があるのだろうか、そもそも、、そんなことはどうでも良い。ここに確かにある黒アゲハの標本は死んだものにすぎない。しかし1000はあるかと思われる標本の中に何か手がかりらしいものへの引っかかりは何故かなかったのだ。諦めて私は温室へ向かった。


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