かたはね Ⅰ
この世界は平面であった。
かぎりなく、宇宙空間とその間に至るまでの全てがただの輪郭でできており、私はそこを滑走しているにすぎなかった。
この日私は大きな発見をした。
この輪郭はりんごと同じであることを。
りんごの外側、つまり輪郭をなぞって延々と繰り返し滑走しているだけにすぎなかった。
りんごの中身は闇である。
闇のまま育ち、もぎ取られて切られるか地面に落ちて中身が見えると私たちはりんごは白かったのだと知ることができる。りんご自体は影を内包したままであるが、その輪郭は外部に向けて艶めき赤く主張している存在だ。内側から外側へ、メビウスの輪がりんごに重なった概念をもっているだけである。私たちはその輪郭をただりんご以外のものにもあてがってその曲線を滑走するように確認しているにすぎないのだ。
分かるだろうか。と、手のひらに書いた想像の手記を読みながら私は雪降る夏の日に雨傘を差して帰り道という名の冒険を始めていた。
その日はとんでもなく悲しかったのでそうするしかなかったのだ。
辺りはしんとしており、かき氷も雪のせいで売れていない。今日はブルーグリーンの樹海の色に沈んだ夢を見ていたので行先はわかっていた。「それは食べられますか?」と、ネズミが聞いてくるので「いいえ食べられません」と答えるだけだで帰路の出来事は底をついてしまった。今朝の夢は母親に樹海の中で愛される夢だった。母親とはいうものの顔は見えず、その容姿は少女のようであった。
と、格好をつけたような左手に小さくボールペンで書いた自分の文章を読みながら私は現実世界を見直す。
今日、黒アゲハの蝶が羽化して死んだ。いや正確には昨日だったかもしれない。その姿は簡易的におられた折り紙の鶴のようにくしゃとなって暗い玄関の棚の半透明のプラスチックケースに入ったまま死んでしまった。羽化不全だった。体液が漏れて死骸の周りにはマーブリングのように模様ができていて干からびていた。蝶は弾力をまだ保っており、片翅を開いたままもう片方の翅をくしゃと縮れさせたままで倒れていたのだ。
翅はカーボン紙のような温かさがあった。多分耐水性のためだろう。空気や雨を遮断するその熱はまるで生きているかのようだった。両の複眼はつぶらについておりとてもキュートであった。美しくメノウの宝石のような色感だった、六つの足は丁寧に胸の前で合わせて行儀よく折りたたまれていた。
可愛かった。とても、可愛くて仕方なかった。大事に育てすぎて蛹になるまで見守って今か今かと羽化を待っていたのに、三月の彼岸過ぎた頃の暖かい日に羽化してしまってそのまま放置されたかわいそうな蝶だった。つぶらな複眼は青空を見ることなく暗い玄関で命を終えて何も眼に映すことはなかった。哀れだった。
私は死骸をティッシュペーパーに八つ橋のように包んで枕元の小さな本棚の上に置いて線香を焚いた。弔うために土へ埋めに行かなければと思ったがそれからそのまま6日ほど経ってしまった。ティッシュペーパーをめくるのが少し怖かったからだ。八つ橋のあんこのように三角形のティッシュの中に映る黒い影は未知の何かであるようで不気味な影に思えた。
一週間ほど経って近くの公園へ埋めに行くことにした。その日は晴れて良い日だった。子供達が公園で声を鳴らしている。穏やかな温かい日であった。私は『蝶の食草』と書かれたブラスチックのカードが刺さった生垣の中に埋めることにした。しかしその生垣には黒アゲハの食草や吸蜜する彼岸花もなかった。 ここから入らないでくださいと提示されているロープを乗り越えていけないところに手のひらほどの穴をスコップで掘った、蝶を袋から出して私は初めて陽の下で蝶をまじまじと見た。
とても愛らしかった。ふさふさの体毛にからだは包まれていて腹は体液がなくなってしまってぺちゃんこであったが、脚のついている胸部は筋肉がありしっかりとまだ形を残していた。片翅だけが翅脈を美しく見せてくれていて下翅の赤い斑点も見て取れた。その赤い斑点がとても印象的だった。時間が経過したせいか陽の下なのか複眼はサンゴの宝石のように桃色に見えたのでとても可愛らしかった。丁寧に浅く掘った穴に蝶を横たえて翅を静かに埋めていった。良い日だった。晴れて子供達の声がそこいらじゅうを満たしていた。散歩している人々が多くそこにはゆったりとした時間が流れていた。
ふと、蝶の翅の表側を見るのを忘れてしまったと思った。翅を閉じる形で死んでいたため見えているのは裏側だったはずだ。いや、表か裏かそんなことはどうでも良いのだが、蝶の翅に裏表の概念があるのだろうか。確認しなかった反対側の翅は一体どれほど黒くあったのかわからなかった。第一、世界は平面でできておりおそらく蝶の翅も確認できなかったのであれば平面のまま記憶に残るのだろうと思った。影を確認できなかったようなものだ。とすれば反対の翅は見ることも見られることもないまま埋まってしまった。影だと思った。その影はこれからますます濃く自分の胸のあたりに焼き付いて膨張してゆくものだとも思った。
すっきりと晴れて良い日だったがひどくもやがかかった日でもあった。そのまま喫茶店に向かいコーヒーを注文するとその黒さに蝶を思った。そして夕闇が私の影を飲み込んでいく。まもなく私は影の夜と一体となって溶けていく自分を蝶に投影していた。
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