かたはね Ⅴ
感じるもの
温室へ向かった私はそのドーム状の空間に教会を覚えた。中は蝶を放しておけるよう適温になっておりいたるところに植物や花の蜜が吸えるように花がたくさん咲いている。吸水できるようにと糖分が取れるようにゼリー入りの小皿が至る箇所に設置されている。オオゴマダラやイシガキチョウなど国内の蝶が舞う中私は呆然と立っていた。
黒アゲハは見当たらなかったが似た色ですごく大きな黒い蝶が優雅に舞っている。人は相変わらずいなかった。
ここには人間と蝶と植物以外いないのだった。なぜかそのことに安堵を覚えた。そしてゆっくりと小道や植物のアーチになっているところもあるドーム内を歩いた。何周もゆっくり ゆっくりと自分の歩幅を確かめるように、足元に吸い付いてくる可愛らしい人懐こい蝶を蹴飛ばさないように慎重に歩いた。
しかし私の慎重さとは逆に蝶は舞いながら無言で笑っているようだった。
私は撮影用に持ってきたデジタルカメラで撮影を試みた。何か記述以外に残さなければ、ライブレコーディングを書き込むものが自分であることの自信が持てなくなっていた。昨日のことが今日のこととなっているその手記に自分自身が参加しているとは到底信じられないことであった。しかし順々に同じ行動を繰り返して体験することで徐々にもう一人の「私」に近づいている感覚を覚えた。私は「私」なのだという確信と、蝶を埋めたことは確かであると納得を得るまで根気のいることであると思った。
ふと、ファインダーを向けた方向に大きなオオゴマダラがひらひらと微笑むように飛んでいる。本当に蝶はこうやって笑うのかもしれないと思った。優雅だった。私はその一瞬を捉えたくてシャッターチャンスを待った。
何度かシャッターチャンスを逃してしまったその内にオオゴマダラはひらひらとファインダーから外れていってしまった。
その次の瞬間不意に顔に何かとても柔らかい暖かな空気がやってきた。ふわりと被さったそのやわい光のようなものは追っていたオオゴマダラ蝶であった。
その瞬間何か不思議な感覚が私の半身を走った。
暖かいのだ。カメラのレンズと私の右の顔をまたいで止まったその蝶は何度が翅を閉開させてまた微笑むように去っていった。
私は魔法のような感覚に驚きながら涙が流れそうになっていた。
とても「暖かかったのだ」そうだ。蝶は暖かかった。それは大きな手のひらほどの翅が耐水性のため空気を遮断する際のその間の空気の流れの滞在によるものではあるだろうものの、暖かいのだ。
心の中の氷った部分を溶かすような優しいあたたかさなのだ。
無言に、人の言葉も持たず蝶だけの会話をしている彼らは愛そのもののように思えた。
私はふと自分が涙を流していることが不思議でたまらなかった。
蝶の脚が触れ翅の息遣いを感じ、私を受け入れてくれた気がしたのだ。凍った世界に生きる私の冷えた身体はその行為によってふわりと柔らかくなった気がした。
不思議だ。本当に。生き物というのは何か違う言語を持って語りかけてくれている気がする。人間だけが鈍感に自らを氷の世界へ生かしているかと思うほど生き物の世界は暖かいのだと思った。
そして神経がゆるく開くように自分が埋めたであろう蝶との6日間と、光と闇について考えたことを受容したように思えた。埋める前に、直前に確かに身体に触ったのだ。その愛おしさだけが感覚として脳の頂点から指先までを流れていくのを感じた。たった一頭の蝶が顔にとまった瞬間に、すべての蝶の意思感情の連携を見たかのように思えた。そしてやはり翅の裏と表は意味のないことで人間の概念でしかなく、両方とも暖かいということも同時にわかった。
しばらくその温室に来たままの姿で呆然と立ち、音が流れるような時を味わっていた。私の血液は温まり祝福を受けた気持ちになった。
「もっと早く触れればよかった。」
触れずに考え続けて苦しんでいた。いや、触れることが怖かったのだ。死というものに触れることが、自分を遠くまで追いやってしまっていた。生を取り戻すように山頂へ行ったことも今ならわかる。それほどただ孤独に愛したものの死ということから逃れたかったのだと思った。それに今の今まで触れられなかった。
「あたたかい」
クロアゲハは死んだ。黒く影を膨張させてゆくほど胸にこびりついて死んだ。しかしあたたかかった。それは性質としてのものだけではなく、何かを語りかけていたかのように思えた。その違和感と死して生けるという蝶の言語があるならそれにに追いついていけなかったのだった。
蝶は人の魂を乗せて飛ぶという。無言で微笑む光のように。この教会に似た空気のドームでさながら懺悔するように呆然と、本当の時間よりもずっと長くそこに立ち命のあたたかさを感じていた。
視界の外れにさっきとまってきたオオゴマダラが遠くで微笑みながら私を見ていた。光のようにチラチラと舞いながら。
光とは 生か死か。私は大きな死を含んでいると感覚的に思った。リンゴが大きな闇を内包するように。
胸の中の黒い蝶の輪郭が淡く光った気がした。
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