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創価学会がなにか「ヘン」だぞ。
盛大に“タイトル詐欺”してしまいました。すみません笑
ヘンはヘンでも、今日僕が書こうと思うのは「創価学会のいい意味での“変”化」についてです。
タイトルから、学会への悪口や不満を想像した方も含め笑、せっかく開いて頂いた方、もしよかったら最後までお読み頂けたら嬉しいです。
今日の聖教新聞がすごくいいんです
「創価学会に何か“変化”が起きようとしてる」
聖教新聞を読んでいてそう思ったんです。
最近感じていたこと、考えていたことが、今日の聖教新聞を読んで一本の糸になってスーっと繋がっていくような感覚になりました。
今日の聖教すごくいい。ワクワクする。
そのワクワクを共有したくて、noteを書いてみたいと思います。
まず1面、「ゲームチェンジ」
1面には、梁島 新男子部長による「全国男幹」のアピール動画が載っていました。
このアピール動画、内容もさることながら僕にはある言葉が心に残りました。
それは、「ゲームチェンジ」という単語。
なんだろう、このワクワクする感じ。
男子部長は動画の中でこう語っていました。
「人間のための宗教」とは何かを社会に示すのがこの全国男幹です。
広宣流布のための“ゲームチェンジ”ともいうべき、拡大の転換点となるのがこの全国男幹です。
そして新時代の「青年学会」建設への師弟誓願の場となるのがこの全国男幹です。
僕にとっては、単に全国男幹のアピールだけではなく、これから学会青年部が進もうとする方向性そのものを表しているような、そんな気がしたんです。
長く続くコロナ禍は、僕たちの生活を変えました。
仕事のやり方を変え、人間関係や幸福のあり方さえ変えたかも知れないとすら思います。そうしたなかで、学会も否応なくその変化を受け入れ、新たな価値観を受け入れ、変化を続けてきました。
でもどちらかといえばそれは、社会がこうだから、環境がこうだから、学会もそれに「対応しよう」という受動的な変化だったように思います。特にコロナは。
でも、“ゲームチェンジ”という言葉がもつ意味は違う。
従来の常識やルールが崩壊し、新しい展開、局面の訪れを表す「ゲームチェンジ」という単語は、僕自身は「変化の“特異点”」だと認識しています。
今まで起きてきた変化を整理し受け入れながらも、受動的ではなく「能動的な変化を促す」「自ら変革を仕掛けていく」そんなイメージが湧いてきました。
僕はもともとお気楽人間で、「学会なら何でも絶対乗り越えていける!」とかいう楽観的な考え方。
でも、もしかしたら中には「学会が変わるなんて、そんな大それたことが本当にできるのか」とか「学会には無理だ」、そう思う方もいるかもしれない。
でも、そのヒントもまた聖教の記事に見つけました。
なんか嬉しかったからこれも書かせてください笑。
同じく第1面、「壁を克服する」
1面には特集「危機の時代を生きる」、今回はジャーナリストの田原総一朗さんへのインタビュー記事が掲載されています。
そこには池田先生を中心に、かつての創価学会がどうやって「排除の壁」(=信仰心が強まるほど他者を排除しようとする宗教の危険性)と向き合い、乗り越えてきたのかが3つの点にわたって書かれていました。
まとめると、
①1970年ごろの「言論・出版問題」をきっかけに、組織のあり方を見直し機構改革を行ったこと。より近代的な組織に生まれ変わり、地域に根ざし、社会から親しまれていく創価学会を目指したこと
②「邪宗」から「他宗」への言葉の変化。道理を尽くした対話を通じて、宗教的寛容性を高めていったこと
③池田先生が「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への転換を表明し、「人間あっての宗教」だと言い切ったこと
(記事の趣旨を要約)
だと述べられています。
特に今、創価学会はあらためてこの「人間のための宗教」の重要性を、社会に強く広く訴えていくことを求められているように感じています。
男幹のアピール動画にもまさに、「“人間のための宗教”とは何かを社会に示す」とありました。
まったく偶然じゃないなと感じました。
創価学会がより広く社会から受け入れられるために「変容」していった時代。
社会の変化、学会を取り巻く世論の変化に「応戦」していった時代。
池田先生を中心になされたことが今、後継の青年部に任されているんじゃないかな、なんて考えると、とても他人事ではいられない。
今のちっぽけな自分にも何かできることがあるはずだ、と期待と責任で胸が膨らむような想いになりました。
そして、2面「言葉の力」
そして、これまたすごいなと思ったのが、2面に掲載されている創価大・女子短大の入学式の池田先生のスピーチでした。
2000年のスピーチだけど、まるで今僕たちが生きている時代に向かってご指導されているような気持ちで読みました。
青年よ、敢然と大胆に、声をあげたまえ!
これが魯迅先生の一貫した叱咤でありました。若人にとって、臆病な沈黙は「敗北」です。魂の「死」であります。
でもそれは、無責任な「声」では決していけない。
地に足の付いた、自分の責任感、使命感から発する言葉でなければ誰の心にも届かない。
魯迅先生は、口先の理想や格好いい言葉やスローガンを叫ぶだけの青年には、まことに厳しかった。そういう人間を軽侮した。それでは、現実に「民衆を救う力」は持てないからであります。
学会の現状を嘆き、欠点をいくらあげつらったところで、それでは何も変えられない。建設的提案もなく、理想を述べるだけの人間には、真に民衆を救う力はない。
その厳しい言葉に、自分もあらためて気が引き締まる思いがしました。
現実は厳しい。だからやる価値がある。
ということで、今日の聖教新聞を読んだ感想を書いてみました。
一言で言えば「ワクワクした」、それに尽きるわけですけど、もちろん僕だって“現実の厳しさ”は認識しているつもりです。課題がたくさんあることもなるべく知ろうと思っています。
(ありがたいことに、僕の質問箱には“苦情にも似た”学会組織の課題や改善点が時々寄せられています笑)
でもそれって僕は「伸びしろ」だと思ってます。学会はまだまだ良くなる。もっともっと居心地のいい、社会に求められ得る団体になっていくんだろうと確信してます。
今の僕には何かを「変革する力」なんてない。
自分の人生にも、人間関係も仕事もプライベートもたくさん悩みがあって、自分の地域に住む、目の前の部員さんと一緒に成長するので、今は精一杯かもしれません。
でもワクワクしたっていいじゃないですか。
社会では、宗教2世だとか、少子高齢化だとか、コロナ禍だとか、暗い話題に目を向けようとすればいくらでもある。諦めようと思えばいくらでも諦める理由はある。
だからこそ、僕はワクワクしていたいんです。
大好きな学会が、もっともっと日本社会や世界中の人たちに受け入れられるような素敵な団体になって欲しいと思います。
当たり前だけど楽観的なことばかりじゃない。
現実は厳しい。変革は難しい。
でも、「だからやろう!」って思うんです。
課題から目を背けず、自分の地域から、自分の足元から小さな変革を起こしていこうって、そう思えるような、そんな希望が迫ってくるような聖教新聞でした。
最後に、記事の中で田原総一朗さんが書いていた文章を紹介して終わりたいと思います。
振り返れば、言論・出版問題や宗門問題といった窮地に、創価学会は何度も直面してきた。そのたびに誰もが、創価学会は間違いなく衰退すると予測しました。僕もその一人です。でも創価学会は、その推測を見事に裏切り、その都度、驚くべきエネルギーをもってピンチをチャンスに変え、逆境を乗り越えてきた。この過程で、創価学会は「人間のための宗教」として成熟し、宗教における「排除の壁」をも乗り越えた。これはとても大きい意義を持つし、僕の見る限り、他には成し遂げられなかったことだと思うんです。
10年後、50年後、100年後、学会はどうなっているのか。
悲観的な予想も大いに結構、冷静な分析も絶対に必要。
冷静さも客観性もとても大事だけど、だけどやっぱり情熱とロマンを持って朗らかに生きて行くほうが、自分の性分に合っています。
未来はどうなっているか分からないけれど、未来をつくるのは「今を生きる自分たちだ」ということだけは間違いないですよね!
日付が変わる前に書けた~!
読んでいただいた方、ありがとうございました!