僕のじいちゃんのこと。
じいちゃんが亡くなった。数え年で95歳と6ヶ月。
笑うような顔で、眠るように息を引き取った。
コロナの様々な制限も明けたおかげで、多くの親戚・知人が集まり、創価学会の友人葬(お坊さんではなく、故人と縁ある学会員の方が導師を行う形式)によって、たくさんの追善のお題目に包まれながら、じいちゃんは眠っていた。
美事な最期だった。
僕のじいちゃんは、67歳で創価学会に入会した。
入会自体は僕よりも遅い。
東北訛りの方言が激しすぎて、ほとんど聞き取れない単語もあったけど笑、小さな頃の僕にとってのじいちゃんは、不器用でそれでいてとても優しい人だった。
僕が一人暮らしをするようになってからは、毎年りんごを送ってくれた。
いつもお礼の電話をかけるけど、大人になった今でも3割くらい聞き取れない単語があった笑。
そんなじいちゃんが、入会したきっかけ。
僕が生まれる少し前に、僕の母親は創価学会に入会した。
母親が入会すると、離れて暮らすじいちゃんとばあちゃんにも、信心の楽しさを語るようになった。
聖教新聞もとってたみたいだけど、その時はほとんど読んでいなかったと言っていた。
じいちゃんはある時、大病をきっかけに死の恐怖を身近に感じるようになった。
そんな時、日々の聖教新聞に掲載される体験談に励まされる。信仰の確信を持って生きる学会員の“強い生き方”に関心を持つようになった。
数年後、次に病魔が襲ったとき、じいちゃんは「信心するしかねぇ」と肚を決めた。
97年4月、じいちゃんとばあちゃんが創価学会に入会をした。
親戚は真言の家系だったけど、先に信心をしていた僕の母親やその家族の姿を知っていたので、特に大きな反対はしなかったそうだ。
じいちゃんはその後、題目をあげながら治療に励み、病気から奇跡的な回復を遂げた。
以来、感謝を込めて、仏法対話や聖教新聞をおすすめしようと地域を歩くようになる。
もともと地域の方からの信頼も厚かっただけに、じいちゃんやばあちゃんのすすめで、多くの人が聖教新聞を読むようになった。歓喜に溢れ活動する様子は、聖教新聞にも載せてもらった。
病弱で「俺はそんなに長く生きられねぇ」と言っていたじいちゃんは、みるみる元気になって結局めちゃめちゃ長生きした笑。
つい去年も、僕の家族と親戚と旅行に行って、うまい料理を食べて、大好きなお酒を飲んだ。耳は遠くなったけど、じいちゃんの腕を支えながら一緒に墓参りにも行った。
お酒の弱い僕も、じいちゃんとお酒を飲み交わし、みんなと最高の笑顔で写真に収まった。
旅行のとき、「来年はじいちゃんに(僕の)結婚相手を合わせなきゃね」と笑い合った夢は叶わなかったけど、亡くなったじいちゃんの仏壇には「結婚祝い」と書いた僕への祝儀がしまってあった。
じいちゃん、気が早いよ笑。
そんな思い出もあって、棺の中で眠るじいちゃんに会った時、寂しさはあったけど不思議と悲しいとは思わなかった。
じいちゃん安心してね、と追善のお題目で見送った。
そのあと、寂しい思いしてないかなと思って、ばあちゃんの部屋にいったら、ばあちゃんは聖教新聞を食い入るように読んでいた。
僕に気がつかないくらい真剣に読んでいたから、しばらくしてから声をかけて、ばあちゃんの腕をマッサージをしながら、じいちゃんの思い出話をした。
部屋を出ようとしたら、「お駄賃だ」とお金を胸ポケットにねじ込まれた。もう大人なのに。笑
ばあちゃんにも長生きしてもらわなきゃな。
そう思いながら、東京に戻ってきたのでした。
ともあれじいちゃんは、孫の僕から見ても素晴らしい人生でした。
いろいろな悲しいニュースに触れるたび、寿命を全うするってだけでも、今の時代どれだけ難しいことなのか実感する。
さらにその寿命を、多くの人が笑顔で見送るような、充実の人生で終えることがどれだけ素敵なことか、あらためて考え直すきっかけになりました。
誰かの人生やその在り方を、他人が「良い悪い」と論じるのは難しいことだと思うけど、自分の人生の価値だけは、自分が決める以外にない。
寿命が尽きるその時に「ああ、良い人生だった」と思えるのかどうか。
正しい人生、幸福な人生、その価値判断の基軸となる思想をもっていることは、本当にありがたい。信仰の強みだと思います。
宗教にネガティブなイメージがある今だからこそ、僕は自信をもって「信仰の素晴らしさ」を語っていきたい。
そして、僕もじいちゃんに喜んでもらえるような素晴らしい人生を送ろうと思う。
じいちゃんみたいに最高の最期が迎えられるよう、悔いのない人生を送ろうと思う。
じいちゃんが最後まで感謝を述べていた池田先生とこの信心から離れず、
じいちゃんを最後まで大事にしてくれた学会の同志のみなさんと一緒に、
僕自身の人生を歩み通し、生きて行こうと思います。
そんな誓いを込めて、noteに書き残しておきます。