SM小説「路上の恋文」⑯帰路
優しい人
また、穏やかな日常に戻っている。あれから、麻美は晃子にどう接すればいいか分からなかった。それは、晃子も同じだったに違いない。お互いに連絡を取らないまま、10日ほど経っていた。
「竹山さんと親しかったですよね?全然連絡が取れないみたいだけど、何か知ってますか?」
始業後の定例ミーティングが終わってすぐに人事の同期から連絡が入った。
「そうなんですか?何も私は聞いていませんけど…」
心の中でドキッとしながらも、いつもの冷静な麻美のまま、淡々と答えて電話を切った。
昼休みに入ってから麻美は思い切って晃子のケータイに電話した。しかし、もう電話番号が変わってしまっているらしく、繋がらなかった。この時、麻美は大事な友人を失ったことを悟った。
結局、それから数日して郵送で晃子からの退職願が届いたらしい。人伝で聞いたところ、イギリスに語学留学というのが退職理由だった。
それを聞いて麻美はやりきれない気持ちになっていた。本当に晃子がやりたくて留学するのなら大賛成だ。だけど、それが私との関係からの逃避的な手段となっていたとしたら…深い自責の念に苛まれた。
晃子のことが頭から離れずにまるで仕事に手が付かないようになっていた。まず落ち着いてずっとPCの前に座っていられない。そして、仕事のメールを見ても文の意味が頭に入らず、返事が書けそうにない。データの解析などまるで頭に入らない。いつもは規則性を見つけ出し、仮説を立て、それを立証する準備にとりかかる、その一連の動きがまるで進まなかった。データを眺めて、眺めて、眺めて…眺める。そこから進まなかった。
処理した仕事量よりも今日発生した仕事量の方が多くなるのは当然だった。定時後、ため息を付きながらベンディングマシンに向かいコーヒーを買った。そして、自席に戻る最中、後ろから、さっとコーヒーカップを持っている右手を掴まれた。
「久しぶり!ちょっといい?」
そう言うと、麻美の意思の確認を取ることのないままグイグイと右手を引っ張り、使われていない会議室に引きずり込まれた。
隼人だった。
開発を一緒にしていた時は白衣だったが、今はスーツを着ていた。それもかっこ良かった。久々に見る隼人の目には力がまだみなぎっていた。どれくらいぶりだろうか?大好きだった過去の男が目の前にいることに驚き、そして少し心が躍った。コーヒーカップを棚に置いた。
「大丈夫?何かトラブルに巻き込まれたりしてない?困ったことがあれば聞くよ?最近どうなの?」
よほど隼人は心配していたのだろう。久々に会ったというのに、挨拶らしいやり取りもなく、質問ばかりが続いた。
「最近?本田さんと別れてからのことですか?私は私なりに一生懸命にやってますよ。突然何ですか?」
「麻美の友達の竹山さん、急に会社辞めたみたいだし…去年は変なLINE来たし…ずっと気にしてたんだ。そう…別れたけど、麻美のことが気になるんだ。」
柔らかく微笑んで麻美は答えた。
「あー、あのエッチなLINEですか?酔っぱらった時に本田さんをからかっただけですよ。私にだって抱いてくれる人いるんですよ?私の身体にまだ興奮してくれましたか?いやらしい女だって軽蔑しましたか?まだ愛してくれますか?その覚悟がありますか?」
「それに晃子のことは知りません。本当に関係ありませんっ!」
矢継ぎ早に麻美はそう言うと隼人に寄りかかり、涙が見えないように隼人の真っ白のシャツに顔を埋めた。麻美が抱え込んだものを一緒に抱え込むように、隼人はそのまま麻美の身体を支え、胸を貸した。そして、何も言わないまま麻美の頭を撫でてあげた。
言葉と動きのない時間が二人には心地よかった。ブランクがあったとしても、そこはお互いに好きな者同士。電気も付けない暗い会議室で時間だけが過ぎた。
しりくして麻美はさっと後ろに一歩下がり、そして、また微笑んだ。目は潤んでいた。
「何もトラブルなんてありませんよ。でも、声かけてくれたの嬉しかったです。本田さんを好きで良かった。」
「麻美が何か抱えているのは分かった。役に立っても立たなくても、困ったらいつでも言っておいで。いつでも100%、麻美の味方だから。」
無言で麻美は頷いた。
二人で一緒に会議室の扉に手をかけて、そっと開けてそれぞれ別の方向に歩くのだった。コーヒーカップを持ち出すのも忘れたまま。それくらい麻美は夢中だった。
(奥様と仲良くしてくださいね)
遠ざかる隼人の背中を見て、麻美はその言葉を心の中でつぶやいた。
物理的に何か変化が生じたわけではなかったが、この数分間の抱擁で麻美の中のやりようのない虚無感や喪失感が薄らいでいった。
見ているもの、見えているもの
晃子からの責めを受けてから3週間が経った。麻美は自らの意思で調教にやってきた。13回目の拡張だ。
傷は完全に癒えた。
そして、この間の麻美の自主学習は凄かった。特に晃子が退職してから、麻美の中で晃子の分も頑張らなければならないという思いが大きくなっていった。結果、人一倍真面目な麻美の行動はエスカレーションされた。
今日の最終ディルドが難なく受け入れられることは明白だった。
「よくやったな。これでお前は全ての課題をこなした。しかも1回も脱落することなく。大したもんだよ。最後は奴隷卒業の試験、私の手でダブルフィストだ。」
「お褒め頂きありがとうございます。責務として、私にできることを懸命にしたまでです。様々な奴隷がおります。どうか、ご主人様はその全ての奴隷に平等の愛を。一つだけ質問することをご容赦ください。」
頭を地べたに擦り付けて最上級のお願い事として麻美は敦司を問いただした。
「晃子がどうしているかご存じでしょうか?どうかお教えください。」
「お前が心配するのも分かる。だけど、分不相応じゃないか?アイツのことは分かっている。まだ私の手の届く内にいる。」
「ご主人様がそう仰るなら安心しました。出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。」
何ら証拠が出されたわけではない。だけど、この数ヶ月の経験の中で敦司には主たるべく素質があり、下らない嘘を付くような人間でないことを肌身で感じるようになっていた。それゆえに、麻美は安心した。
「それぞれの立場でからしか見えないものがある。2週間後に卒業試験に来い。」
麻美はいつも通り2本のディルドを持って、地下に留まる敦司を何度も振り返って確認しながら、階段をゆっくりと上がっていった。
<続く・次回最終回>