黙示録、再投稿前ちょっとした補足

続くのは、黙示録がどのような書物か、一考察の紹介です。
黙示録を通して読む、証しされ語られる預言のメッセージに耳を傾けると、一貫して訴求されていることがある。先に申し上げたように、そのメッセージの本旨は、

ただ神と小羊なる主を礼拝せよ! 

に尽きる。時が悪く思われたり、悪いことが畳みかけるように襲ってきたとしても、様々な声に屈したり惑わされたりするのでなく、先がどうなるのかとの憶測に苛まれたり、そんな噂を吹聴したりするのではない。過去も未来も、まさに今を支配され、働かれる主ご自身を礼拝する――まことの神を仰ぎ、その御前に拡がる”現実”につながり、この世の現実にあっても主とともに生きる、また証しする――”最後”、から広がるとこしえ、に至るまで。(なかなか自分にできていないことを書き連ねるのは忍びないのですが… 願い、祈り、希望はあり!)

それこそが黙示録のメッセージ! だとする根拠を、できるだけ分かりやすいようにお分かちしたいと思っています。

個々の語句や節にまつわる詳細はいつか改めて、時間がゆるされれば。今は、ひとまず、ざっと黙示録全体の構成と流れから浮かび上がることに着目します。

その前に、いくつか補足しておきます。


<補足①:黙示録は一つの文書> 

黙示録は、聖書としてまとめられた書物の中の一つの文書です。が、黙示録そのものも、一つの文書として記された書物です。そもそもは、一つの手紙として、7つの教会に宛てられた文書ですから、そこにはまとまりがあり、構成があり、流れがあります。

もちろん、だからといって、他のすべての書物と独立してあるというのではありません。著者ヨハネと宛てられた教会の仲間たちには、分かち合う共通理解があります。東西融合のヘレニズム世界、ローマ帝国の支配の諸々もあるでしょう。が、それにまさって、今、私たちが”旧約聖書”とするみ言葉であり、イエス・キリストの証しです。(その範囲などについて考察は、ここでは控えます。)そんな共通理解を新たにとらえ、受けとめるよう記されたのが、黙示録と言えるでしょう。そうすべく、神がイエス・キリストへ、そして御使い/天使を介して、著者ヨハネに幻を示し、預言を託されたのです。(御霊にあって!も大切なポイント!)だから、黙示録は、聖書(主に旧約、中でも特に預言書)の内容だらけ。はっきり分かる引用ではなくても、参照、言及に溢れています。逆に、それらがない箇所はないといっても過言ではないでしょう。

程度の差こそあれ、”新約聖書”に納められている書物は、すべてイエス・キリストにあって、神とともに、神の民として、いかに歩むのかを記すものです。(もちろん、いかに歩むかの前に、その事実と約束がある訳ですが。)

そうであっても、黙示録の文脈から単語や節句を切り出して、他の聖書箇所(また他の文献)との関連で考察を進めるより、まずは、著者ヨハネが、御霊に感じて受け、まとめた黙示録を”そのまま”――全体像と構成を受けとめ、流れを追いながら――聴く、読むことは肝心と心得ます(※下記補足あり)。黙示録は、一度きりではなく、繰り返し、読む、聴く、(イメージを)再現することを想定されていると思われますから、まずは、黙示録をまとまった文書として受けとめ、うかびあがるポイントを探り、真摯に受けとめたいと思うのです。


<補足②:黙示録に章句の区分なし>

黙示録にはそもそも章句はありません。(黙示録だけでなく、聖書としてまとめられたすべての書物について、そうです。)

詳細はここに記しませんが、聖書の章句は、ある時に便宜上振られたものが、そのまま共有され、普及したもの。そして、今や、修正、変更となると大混乱でしょう。ある程度の一致は得られるかもしれませんが(それさえも、どの仲間うちでかによるかもしれない!?)、細部となると、まぁ無理だろうと思われます。だから、敢えてそのままなんだろうなと思っています。(そんな試みがあるのか、目下、私は知らないです。)

何が言いたいかというと、章句の切れ目が、必ずしも、黙示録の内容の句切れに合致していないということ。むしろ、邪魔(ごめんなさい💦)になることもあってしまうということ。章句の数はあくまで目安とし、とらわれないで! ということです。


【補足①へのさらなる補足】

(1)他の文書もまた… いわゆる”新約聖書”に納められている文書についても、それぞれ一つの文書。その関係、関連には濃淡あっても、一緒くたにされず、残されていることは、相応の受けとめがあって然りかなと思われます。まとめきれない何か、まとめらることで失われてはならない何かが、それぞれの文書にあるかなと。

同じ単語、同じような節が記されていても、その意味づけは、必ずしも同じではないかもしれないですし、安易に関連付けて、組み立てていくのは違う――かもしれません。そうすることで、興味深い”再構築”ができるものだなぁとも思っていますけれども。やはり、それぞれの文書を丁寧に受けとめ、紐解き、それぞれの文脈の中で理解していくことも大切ではないでしょうか。きっと、ならではの発見につながるでしょう。(そんな試みがたくさん!! だから、注解書もたくさんあるんですよね!)

(2)とはいえ全体として… もちろん、とりまとめの試みが、すべて間違えていると言うのではないです。その試みを通してこそ分かる素晴らしさ、確かさがあるでしょう。その壮大な試みにも、主の恩寵や導きがあり、先人たちからその恩恵を受けているともわきまえてもいます。(実際のところ、数々の神学書に、私自身もまた、驚きや感動をたくさんいただいてきました! また、考えを整理するにあたって、助けとなったことも確かです。)

それぞれの書物に、状況に即した強調点があるにせよ、究極的には、全体として言わんとしていることは同じ――まことの神、救い主なるキリスト・イエスを礼拝することの奨励。キリストにあって神の子、神の民とされて、御霊を受けていることの約束、希望。この世にあって、天の御国(神のまったきご臨在)をともに待ち望みつつ歩むように、その日まで、与えられる日々、遣わされる場において、主を主としてお迎えし、証人として生きるようにとの教え、戒め、励まし。土台、目的、要(かなめ)は、キリストの十字架、そこにあらわされた御父なる神の愛! そこを離れるものはなし! 黙示録もその語りかけ、証しの一つ。クライマックスとして、預言を総括を示唆する書物だとしても… と受けとめています。

(3)考察を超えて… 最後に、これから記すことと相反するようですが、考察を超えて、私たち一人一人の置かれた場に即して、神、主が語られること、言葉を超えて与えられる幻、イメージ、印象などもあるでしょう。考察を超える素晴らしい体験、他の何にも比べられない! といっても過言ではないと、個人的には思っています。(御霊によるのなら決して外れなしとも!)主にある方々が受けるその豊かな賜物に、どれだけ私自身もまた励まされ、慰められてきたことかと改めて思います。

そのことも大切に受けとめつつ、続く投稿より、黙示録の考察、お分かちさせていただきます。ボチボチですが、よろしくお願いします。

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