風立ちぬ いざ生きめやも
例えば、のぶみさんの動画で紹介されいてる子供たち、みたいに
メッセージを受け取っている人たちがいる。
私の周りにも多い。
そしてそれを伝えてくれる。
最近では、目を逸らしてしまいそうになる未来の内容もある。
それを聞いた自分の思いをすっ飛ばし、
そうなるのかそうならないのか。
そうなりたくない。
だったらどうしよう、こうしよう。
聞いてはいるようだけど、次の行動があれ?ってなったり。
大半が、自分に対して、不真面目だ。
それじゃあ、
全身全霊で受け取って(しかも伝えて)くれてる人を
骨折り損にさせてしまう。
怖くてもみたくない時があってもみてくれているのだ。
おかしいやつだと思われようが伝えてくれているのだ。
それを自分に対して不真面目な態度でいるのは
いじめに加担しているようなものだ。
それなのに平和がいいと口では言っていたり
おかしな世界なのだ、ここは。
***
伝えてくれてることを
受け取る側が
自分の中にもあることとして
「そうなんだね」と受けとめること。
「伝えてくれてありがとう」
そうしてるうちに「いつ死んでもいい」となってきた。
生きよう!と思っていた時より
生きてることにありがとうと思える瞬間が劇的に増えた感覚がある。
それで毎日を過ごしている。
昨日を超える日もあれば超えられない日もある。
あべこべなようではあるけれど「自分を認める」ことが
唯一、未来を負の連鎖から断ち切る、ことになっていると思う。
(クリスマスキャロルでも表現されている)
自分を小さくせずにやれることなのだ。
記憶を忘れてここにやってきた私だからこそ、
役に立てることがある。これも役割。それぞれが天才。
5次元仕事をするために、
みんなバシャールにならなきゃいけないなんて
バシャールは言っていない。w
みえない世界を伝える人たちいるから0が1になって
それだけではどうにもならなくて
1を「受け取る」人たちがいないことには
世界は、くくってくんじゅう、にはならない。
〜ひふみよいむなやくくってくんじゅう〜
それぞれが役割を果たしているとき上も下もない。
そこに差別はない。
***
しかしまあ、
「そうなんだね」と受けとる。
それだけのことが、なかなかできない病気が現代には蔓延っている。
大袈裟なストーリーにおかされている。(私ね)
洗脳の賜物だったんですね。
自分の中にある「抵抗」に気づかない。
あるとわかっても認めきれない。
あるとわかっても、あえて認めないことを選択してることもある。
ネガティブなしには
ポジティブはない。
陰なしに陽はない。
死なしには生はない。
だけど洗脳されているうちは
死もネガティブも(苦しみ)排除できるという幻覚を見続けたいらしい。
(ライリー(インサイド・ヘッド2)もやられていましたネw)
すんごい傲慢ですね。
***
風たちぬ、いざ生きめやも。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
ジブリ映画でも有名なヴァレリーのこの詩です
後半の部分を
原辰雄は「生きなければならない」でも「生きよう」でもなく
「いざ生きめやも」と日本語に訳して誤訳と非難されたことがあったらしいです。
直訳すると「生きなければならない」というニュアンスの言い回しらしく、
生きめやも、とは日本語的には「死んでもいい」という意味の文になり、
真逆だ、と。
でも私は、原辰雄さんの訳に改めて敬意がある。
「生きる」ってことは「死んでもいい」と同義語だ。
洗脳をされた私たちにとっては特にこのいい回しが深い意味を持つと感じて
誤訳云々論争なんてどうでもよくて、
真理だったのだなあ、と感動している。
いきたい、生きなければならない=死にたい
死んでもいい=生きる
今も昔も
知っている人は知っていた。
受け取る側が、眠らされていた!
さあ、未練を認めて。
何かあってもいい!!!
そう思って「ヒヤ!」と毎日をありがとうと迎えていられるのは
メッセージを伝えてくれているおかげです、ありがとう!!!
風立ちぬ、いざ生きめやも!
***
お誕生日は、
全裸に紫のネクタイをつけた豪くんから
ディナーandワインでお祝いしてもらいました。
前日に用意してくれたケーキは
前日にみんなでいただきました😆(YES、待てないキッズ)
今回も病気全開でお送りさせていただきました!
今日も、お読みいただきありがとうございました⤴️