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ちょっとくらいいいだろう、の罪

昨日、サウンドオブフリーダムという映画を見に行ってきた。

「ちょっとくらいいいだろう」が、蔓延している。

ちょうど映画をみる前後で「お試し」がきた。
これまで「ちょっとくらいいいだろう」で、なびいてきたことだった。
思わず、ほだされて簡単になびきそうになる自分がいることに気づいた。
いや、これまでも、いつも「本当は気づいていた」。

気づいていたのに
「ちょっとくらいいいだろう」で
どれだけ、ちょろまかしてきたことか。
(ちょろまかせたつもりになっていただけで
神様(自分)の前ではまったくちょろまかせてはいない。)

そのツケを払うのが自分ならまだいいけれど、
映画のようになんの罪もない子供達が負わされることにもつながっている。

「ちょっとくらいいいだろう」は
何が「ちょっとくらいいいだろう」なのか。

それは
「自分を大事にしなくても、ちょっとくらいいいだろう」
だった。

これは

自分の大事な人をちょっとくらい傷つけてもいいだろう、

神の声を、
そしてそれを伝えてくれてきた友人たちも仲間も
ちょっとずつ裏切ってもいいだろう。

ということにもなる。
=どんぶり勘定してきたツケが(罪)として大いに溜まっていく。

学びの仲間たちとは、そのお互いのツケの総棚卸しをゆいまーる、
みんなでわっっしょいわっしょい
やっているようなものだったのだ。

今こそ、棚おろし!!!チャンスである。

なかよしごっことは(自分のこと)
「ちょっとくらい、自分を大事にしなくても、いいよねー」
という付き合い方をしてしまってきた自分への罪。
脳内で加害者被害者を
つくってしまう付き合い方を自分にさせてきた。

この人は敵、この人は味方。
これは毒、これは栄養、みたいに
あらゆるものとのつながりにおいて。

誰も何も悪くない。いつだって全て必要で大事。

世界と付き合うために自分がいるんじゃなくて
自分ととことん付き合うために世界がある。あってくれる。

おどしを受けても
でも(私は)恐れません。

これを推し進めていきたい。
あなたたちへの感謝の言葉の代わりに
あなたたちに協力して働き続けたい。

映画のドキュメンタリーで

この映画のドキュメンタリーで
チームの人がこんなふうに語っていた。

自分を大事にすることにやりすぎることは、ない。
ちょっとくらいいいだろう、もない。
とことん!の世界でしかない。

ぬるいコーヒーじゃなくて
ホットコーヒーじゃなくちゃダメなんだ。
(祈りの力という映画の中でも言っていたっけ)

この目でしっかり見せてもらっている。
やりたいことをやる、うちの子供たち(もこさんも)の
容赦のない、無限の元気さ。
私の中にも、あるもの。


自分の犯してきた、ちょろまかしてきた罪がそこここに現れて
懺悔している。

ここまで罪をみせられても痛い目に遭っても
それでも、なびこうとしてしまう自分がいることにも驚く。


自分を大事にするってどういうことなのか、
信仰、ということを

改めて自分に教え直している日々です。
ここに関しては、ちょっとくらい、はない。
(ゼロヒャクの発達障がい気質の、腕の見せ所ではないか!🙌)

正解はないけど
とにかく、私がやるしかないです。

ここまで導いてくれた存在のおかげで
こんな時代のおかげで
ここまで
自分を大事にすることに日々自分を歩ませて
そこに躊躇がなくなってこれているのは

本当にありがたいことです。

夏〜秋の福島ワーク、福岡ワークの後、

ぐちを言わない。
悪口言わない。のせない。のらない。
子供達の前で夫婦喧嘩しない。

小学生みたいな課題ですが、上等でしょう!w
ちゃんと心がけてやれています🙌
自分を助ける、引き受ける、ということにつながることだから。
できたら、ちゃんと褒める。

なびきそうになった自分に気づき、ストップをかけることができた。
(私にとっては、結構な大山でした)

すごいぞ、ちゃんと褒める!!🙌🙌
やったね!なでなで。

「ちょっとくらいいいだろう」を超えて
その先にある世界。

一日のはじまりは、
自分にごめんなさい、ありがとう。🙏

今日もお読みいただきありがとうございました。




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