【再発掘・雑誌が伝える意外な人間模様①】デヴィ夫人越え!!日本人ホステスと石油王との1億ドル結婚話
こんにちは、ゆかりんこと、篠原由佳です。
今回から新しいシリーズ始めます!
昔の雑誌に掲載されている面白い話題や
気になった話題を
皆様にご紹介する読み物です。
いまやネットで検索すれば、大抵の情報が入ってくる時代ですが、
ネットで検索しても「出てこない」とか、「詳細が分からない」とか、
活字でしか残っていないような貴重なお話を深掘りしつつ、
皆様と共有できればと思っておりますので、楽しみにしていてくださいね。
第1回目は、1970年代に日本中の注目の的となった
「アメリカ人石油王にプロポーズされた日本人ホステス」のお話をご紹介します。
・資産1億ドルの石油王に見初められた「第二のデビ夫人」
1974年、アメリカの石油王から電撃プロポーズを受け
「超玉の輿婚」として世間を賑わせた、
ひとりの日本人ホステスがいました。
彼女の名前は、野畑宣己(タカコ)さん。
お相手の「億万長者」ウェンデル・フィリップス氏(当時52歳)は
石油会社の経営者で、一流大学を卒業後に博士号も取得。
40歳の時にはすでに1億ドルの資産を作り上げ、
世界一の石油利権保持者となった「石油王」でした。
そんなフィリップス氏と野畑さんが出会ったのは、
デビ夫人がスカルノ大統領に見初められた店としても有名な
赤坂のナイトクラブ、「コパカパーナ」。
東南アジアの旅の帰り、店を訪れたフィリップス氏は
当時、コパカパーナのホステスだった野畑さんと出会い、
恋に落ちたのです。
フィリップス氏は日本に滞在していた2週間、
毎日お店に通い、野畑さんを指名し続けたというのですから
相当な入れ込みようだったことが伝わりますね。
・「家庭的なホステス」と「年齢詐称疑惑」
お写真を見る限りですと、なかなか外国人好みの
エキゾチックな風貌の野畑さん。
一体どんな女性だったのでしょうか?
資産1000億円以上とも言われた大富豪のハートを
射止めた野畑さんのもとには
多くのマスコミが押しかけていたようで、
当時の週刊誌には、彼女の生い立ちが詳細すぎるほどに綴られています。
『 彼女の「コパカパーナ」での源氏名は岸。28歳。
名古屋生まれ。同市・横須賀高校を卒業後、
しばらく母親の経営する洋裁店を手伝っていたが
20歳の時、単身上京。OL経験、約1年。
ついでナイトクラブ「コパカパーナ」のホステスをへて
現在の店に…というのが、その大まかな経歴である。
クラブでの評判は
「あんまり目立たない存在でしたよ、美人だけど
ハデじゃない。ナイトクラブのホステスというよりは
むしろ家庭的な女性だった。
それが、かえって魅力になったんじゃないですか」』(『週刊文春』1974.5.20号より)
また別の週刊誌では、野畑さんの「年齢詐称疑惑」にも触れています。
『野畑さんは、164cmのスラリとした長身。
からだのサイズは、バスト85cm、ウエスト58cm、ヒップ89cm。
「体重は55kgで、今、太り気味なんですよ」とテレて、
舌をぺろりと出した。黒髪は、まっすぐに、
背中まで伸びている。この東洋的な雰囲気に、
彼(フィリップス氏)は、まいってしまったようである。
今は、国際電話が多い日には2回も
彼から入るというが、彼との仲が親密になったのはこうだった
「そのとき、彼が北海道のアイヌをぜひ
見物したいというので、誘われれて2人で
2泊3日で札幌と登別に行ったのです。
登別温泉は、混浴であたし彼と一緒に入浴したんです」
(中略)
野畑さんに、取材のとき年をたずねたら、
「28才です」と言った。
が、調べてみると、昭和15年生まれの34才であった。』
(『微笑』1974.5.25号より)
年齢詐称はホステスさんのお仕事上仕方がないかもですね(笑)
・クリスマス当日の「心臓発作」とプロポーズ
家庭的な日本のホステスと、アメリカ人の石油王。
立場は違いながらも、2人は急速に距離を縮めました。
そして、その年のクリスマス。
野畑さんはサンフランシスコのフィリップス氏の自宅に招待されます。
ところが、12月25日。
クリスマス当日にフィリップス氏は心臓発作で倒れ、緊急入院する事態に。
そして長い療養生活に入ってしまうのです。
その間、約三ヶ月、フィリップス氏を献身的に看病した野畑さんは、
帰国前日となって遂に
「結婚してくれるか?」
とフィリップス氏から、プロポーズされたというのです。
病床の大富豪をそばで懸命に支え、
ついに結婚までこぎつけるなんて、ドラマチックな展開ですよね。
その後は2人の婚約がフィリップス氏のスポークスマンから
大々的に発表され、日本中が大騒ぎに。
野畑さんは「第二のデビ夫人」として一躍脚光を浴びることとなりました。
野畑さん自身も
「6月の花嫁=ジューン・ブライドと、
わたしの誕生パーティーをかねて、
6月末にハワイのホノルルにある
セントラル・ユニオン協会で挙式する予定になっています」
(『女性自身』1974.7.18号より)
と幸福いっぱいの表情で語る様子が報じられていました。
・日本中が注目した「玉の輿」の悲しい結末
ところが・・・・
7月になっても2人が結婚式を挙げた様子はなく、
野畑さんは渡米もせず、
ひとり赤坂のマンションで暮らしていることが判明したのです。
ラブラブだった2人に、一体、何があったのでしょう?
マスコミの直撃に対し、野畑さんは
『「それが、とつぜん6月7日に国際電報が来て、
それいらい、ぜんぜん連絡が…」
「何もありません。だから私
わからないんです」』
(前出『女性自身』1974.7.18号より)
と涙ながらにフィリップス氏からの連絡が
一方的に途絶えてしまったことを訴えました。
石油王が突然、心変わりした理由は謎に包まれたままですが、
週刊誌によると
『なんだか、フィリップス氏が今にも死にそうな話……。
が、一説には、彼の側近から、この結婚にクレームがついて、
彼自身も考え直し、とりあえず白紙に戻したとも…』(『週刊新潮』1974.7.18号より)
と、フィリップス氏の容体があまり芳しくないことの影響や
周囲から反対されて冷静になったのでは、とも報じられています。
そんなわけで世間を騒がせた「シンデレラストーリー」は
自然消滅のような形で、立ち消えてしまったというわけです。
そして、そのままフィリップス氏は、
1975年12月に心臓発作で亡くなりました。
野畑さんにアメリカに渡ってみては?とアドバイスする人もいたようですが
野畑さんは「女がすたる」と言って、そのまま終わってしまったようです。
野畑さん、その後、一体どうなったのか・・・
報道では何も見つけられませんでした。
もし後日談をご存知の方がいれば、ぜひ教えてくださいませ。