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真の幸せを望むなら

今の思いを記録しておこう。


赦しを頑張ったら、
心眼で見れるようになるんだろうと思っていた。

イエスに助けを求めたら、
苦しさや怒りを感じなくなるのだろうと思っていた。

そのうち目に映るものに、争いや憎しみ、不満、不安など無くなるのだろうと思っていた。


でもそれは違うな・・・と思っている。


頑張ってやろう、
苦しみを感じたら、なるべく早くイエスに助けを求めよう、
そんな風に頑張ってなにかをしようとしてるのは、
”頑張ったら私はできる”と思っている証拠だ。

”私はできる”と思っているうちは、
真の幸せに導こうとしているものを受け入れていない。
受け入れるもんかと言っている。



この体は二元のもの。
この目は二元のもの。
だから二元の世界しか知覚しない。
この耳は二元のもの。
だから二元の世界しか知覚しない。
この思考は二元のもの。
この感情は二元のもの。
だから恐れや不安、不満、怒り、悲しみを知覚する。

私がすることは、
選び直すということだけ。

知覚した二元の世界を現実として受けとるのではなく、
真の私が誰だったのかを思い出して、
それらの知覚を真に見ることを選択しなおす。

いや、選択しなおすことすらできないから、
選択しなおしたいと願う。



この二元の世界にある私には、
自力でできることなど何一つない。
自力でする必要のあることなど何一つない。
今は、そのことを本当に知る時なのだなと思う。



この世界でなにをするかは問題ではない。
自分が望んでいることが起きているだけ。
自分が神に対して取り返しのつかない罪を犯したと信じている私が、望んでいることがこの世界に写し出されるだけ。


ああ、本当に私が望んでいたことだった。
私が私を一番罰してる。
私が私を一番認めていない。
私が私を一番否定している。
私が私を一番けなしている。

その証拠が世界に写し出されている。

いまだにその証拠をたくさん知覚する。

そりゃそうだ。
だって二元の世界にいるんだから。


二元の知覚をすることはダメじゃない。
その知覚は当たり前だ。
その知覚をしたときに、真の見方を選び直せるかどうかだ。

そのことに気づけるかどうかだ。


それなら、
今ここに在ることは、
本当にすべて不足などなく、真の幸せだ。


真の幸せはここにある。

真の幸せは真の私にある。

真の私は知っている。

私がわからなくても、真の私はすべて知っている。


そして真の私にすべてを明け渡したなら、
私は真の私になる。



だから、
私は、この肉体の自分がいかになにもできないのかを
しっかり受け取っていこう。


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