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狂ったままで愛を意志する
私は変わらない。
この世界にいる私はこの体を持ち、
思考、感情を持つ。
原初の罪の意識を持ち、罪悪感を持っている。
この世界にいる以上、それは変わらない。
感情や思考は自我のもの。
この体も自我もの。
だけど私の心は変わってきた。
抵抗していた私の心は、聖霊によってその抵抗を少しずつ手放してきた。
真実を知りたくないと頑なだった心は、聖霊によって少しずつ真実を聞き受け入れたいと思えるようになってきた。
神を恐れ、イエスや聖霊を拒否していた心は、
聖霊によって恐れを手放し愛したいと思えるようになってきた。
早く真実を体得しなければならないと、ずっと思っていたような気がする。
そしてまだまだできてない証拠を見つけては、自分を責めてきた。
今日も感情に流されたと自分を責める。
自我の感情だと気づきながら、自我の思考だと気づきながら、
それを選んでしまったと自分を責める。
聖霊の声を微かに聞きながら、聞こえないふりをして自我の声を選んだと自分を責める。
どうしても心眼で見れないと自分を責める。
赦しの機会だと思いながら赦しをしなかったと自分を責める。
でもそれこそが間違いだった。
自分を責めるということは、神が創られたものは不完全だと言うのと同じことだ。
私の心は今も狂っている。
私の心は今も罪悪感を持っている。
私の心は今も神に対して罪を犯したと信じきっている。
だからこそこの世界にこの肉体を持って在る。
この肉体に留まっている限り、
私は感情を知覚し、思考を知覚する。
この肉体の目は、分離しているように見える世界を知覚する。
様々な問題、苦しみを知覚する。
知覚する時、私はイエスに話そう。聖霊に話そう。
イエスに助けを求めよう。聖霊に赦しの思いを差し出そう。
神を、イエスを、聖霊を愛する心。信頼する心。
幻想の知覚に気づいた時、
言葉によらずとも、
その愛し信頼する心が誤った知覚の赦しを聖霊に運ぶだろう。
私の狂った心を聖霊が正気に戻してくれる。
私が倒れそうになったらイエスが支えてともに歩いてくれる。
私は気づき続ける。
イエスが支え助け、聖霊が私の誤りを取り去ってくれる。
世界は私の投影なのだから、
私の赦しを続けるだけだ。
救わなきゃいけない他の”誰か”がいるわけじゃない。
私だ。
すべては私だ。
そして私はひとりじゃない。
私はイエスに支えられ、聖霊に助けられている。
ひとりで頑張ることなどなにもない。
足りないことなどなにもない。
今、不足していることなどなにもない。
ダメなことなどなにもない。
遅れていることなどなにもない。
できてないことなどなにもない。
神が遅れることはない。
イエスや聖霊に失敗はない。
今、とても、とても順調に歩いている。
いい感じ!
目に映る幻想がどのようであろうと。
今、すべてが完璧で順調だ。
私が神の元に帰ることは決まってるんだから。
すべての混沌が消え去り、愛に帰ることは確実なんだ。
憂うことなどなにひとつない。
失敗はない。
ひとつもない。
すべては私が誤りに気づくため。
気づいたら赦しができる。
赦しによって聖霊が修正してくれる。
今日もイエスと聖霊と手を繋いでいこう!
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