自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(1/2)
スピリチュアルな人生の後半期では、あなたがこれまでの人生において価値を置いてきた様々なものが足を引っ張り誘惑してきます。
その結果は当然ながらあなたをこの世界へと引き留める強い抵抗の力となります。
さて今回の自我(エゴ)による誘惑は「スピリチュアルな教え」です。
この転換期へと移行してきたあなた、そしてこれからそこへと向かっていくあなたにとって、これまであなたを支えてきたスピリチュアルな教えを手放す時がようやくやってきました。
これまでの教えはあなたを「真の自己」へと目を向けさせる一つの手段として大変役に立ってきました。
目に見えるものから目に見えないものへと関心を向けさせるには丁度良い学びとなってきたのです。
スピリチュアルな人生の後半期に差し掛かる際には、大概の人々にとっては今が人生のどん底のように思え、絶望感や無力感に苛まれていて自分の力ではもはやどうすることもできないような状況に追い込まれることがよく起こります。
これらの状況は、あなたを非常に動揺させますが、目醒めへのプロセスにおいてはほとんど回避不能です。
ですが、これは決して悪い出来事ではありませんし、むしろ祝福されるべきものす。
こういった衝撃的な出来事をきっかけに、私たちは初めて真実に対して謙虚な姿勢で聞く耳を持つことができるようになるからです。
このことに関しての詳しい説明は過去記事「スピリチュアルな人生の後半期へと移行してきたあなたへ」をご覧ください。
私たちにとって痛みを伴う経験は、目醒めのチャンスに繋がります。
この痛みが意味するものは何か、そしてその痛みに対してどれくらい敏感であるかによって、私たちは目醒めへの道を自ら選ぶようになるか、もしくはこれまでと同じように眠りに堕ちていく道に誘惑されてしまうかに分かれます。
このことがよく表された釈迦の説法として雑阿含経の中の鞭影経に四種の馬について語られているお話があります。
世の中には四通りの馬がいると言っています。
一頭目の馬は、鞭の影が見えた瞬間に驚き察して走り出す馬です。
二頭目の馬は、鞭が毛に触れたときに驚き走り出す馬です。
三頭目の馬は、鞭が肉に当たった痛みとともに驚き走り出す馬です。
四頭目は、鞭が骨にまでこたえ痛烈な痛みによって初めて驚き走り出す馬です。
これは何を教えられているのかというと私たちの無常に対する感度です。
無常というのはこの世界には一切、永遠不変なるものはないという真理の一つであり死に対する私たちの感度になります。
つまり真理に対してどれくらい目が開かれているかを表したお話だということです。
鞭による痛みとはまさにこの世界で巻き起こるありとあらゆる苦しみの体験です。
小さな不安から大きな悲しみといった様々な痛みの経験に対して、これらが真に意味するものが何であるのかに気付くためには何度もこうした出来事が訪れます。
また、私たちの中には四種の馬の全ての性質を持っていることを理解しておくことは大切です。
スピリチュアルな人生の後半期に差し掛かる時期には、鞭が骨に染み入るような痛みが経験されます。
そうして初めて真理に対する目と耳が開いてくることで、鞭が肉に当たる痛みや、毛に触れる感触、また鞭の影が知覚されるといった全ての自我による誘惑に敏感になることができるのです。
さて、あなたがこれまでの人生で学んできた様々なスピリチュアルな教えは実は真実ではありませんでした。
こう宣言されると、否定や非難されているように感じるかもしれませんが、決してそういうことではありません。
そこに罪の意識や罪悪感を感じる必要性は全くなく、「健全な自我」が育つ上で必要な学びであったということが言いたいのです。
これまでの学びはあなたにとって大きな心の支えにもなってきましたし、それは真実へと至る架け橋でもありました。
これを仏教では「方便」と言います。
方便とは、サンスクリットの upāya ウパーヤの漢語訳であり「近づく」「到達する」の動詞の派生語です。
そしてそれが意味するところは「目的に近づけ、それに到達させる手段や方法」であるということです。
簡単に言えば、真実への方向を示し導くものということになります。
つまり方便とは仏や菩薩による私たちに対して悟りの智慧を得させるための巧みにして最善で最適な手段方法ということです。
この方便についての教えをよく表したお話が「筏喩経」(筏の話)として、中阿含経の中に収録されています。
釈迦の教えはこの方便力によることを覚えておくと、人生のあらゆる変遷期においてとても役立つので以下に一つ紹介しておきます。
教えとは、川の流れを渡るために必要な筏のようなものであり、渡り終えてしまえばいつまでも保持して背中に負い運ぶものではないということを釈迦はいたるところで説明しています。
この喩えから明らかなように、釈迦の教えは私たちを安全、平安、幸せ、静寂、涅槃と導くためのものであり、すべての教えはこの目的のためにあるということになります。
つまり昨今において巷で流行っていて、もてはやされているスピリチュアルなものやその教えも同じであるということです。
スピリチュアルな人生の前半期では役に立った学びであろうと、いつまでも執着しているなら、次の学びの障害となりそれが苦しみの原因にもなってしまうということです。
この世界でいわゆるスピリチュアルな学びとして用いられるのものといったら大体以下のようなものではないでしょうか。
引き寄せによる願望実現・神社参拝による開運・風水・星の配列や暦の吉凶日・各種占い・過去生リーディング・前世療法・アカシックレコード・オーラ鑑定・チャクラ開発・ヒーリング・エンジェルナンバー・サイキック系・マントラ・アファーメーション・パワーストーン・カラーセラピー・エネルギーワーク・宇宙人や多次元存在などからのチャネリングなど
これらはほんの一部であり、名前やテクニックが変わったり、複合的に合わされば新しいものへと変化しそのコンテンツはまさに多種多様です。
こういったコンテンツは今や一大マーケットとして成り立っているほどで、本屋に行けばありとあらゆるジャンルのスピリチュアルな知識が所狭しと並んでいます。
しかし、これらの学びのほとんどがこの世界やこの身体が実在していることが前提となった情報であることがお分かりでしょうか。
つまり、個人的な問題の解決や願望実現にフォーカスしているということです。
これらの知識や経験によって私は幸せになれるし、また他者も同じく幸せにすることができるという信念です。
決してこういったスピリチュアルな学びが人の精神性を高めることにはなりませんし、スピリチュアルな人生の後半期ではこれらの知識は全く必要とされません。
逆にその学び自体が足枷となったり、他者を比較し優劣を付けるために用いられる可能性すらあります。
スピリチュアルな学びの中でよく起こる間違いに
「あの人はスピリチュアルなことを何もわかっていないから精神性が低い」
というものがあります。
この他者に対してのジャッジはときに、自我の大きな声による分かりやすい断罪として、またあるときはさりげなく優しい言葉で包まれながらも他者を否定し罰するという形をとって様々に表現されます。
得てしてこのように自我に一体化し分離を強化するような思考とそれに伴う発言をするとき、その批判の対象は主にこの社会の常識が求める、物質主義や上昇志向の強い、いわゆる精神的な問題への関心が全くなく、富と物質を占有することに第一の義と欲がある実利主義の人(多くは男性)へと向けられがちです。
また、同じ学びの仲間に対しても優劣を付けたくなる衝動に駆られます。
しかし、物質主義であろうと精神主義であろうとその実は、探究の矛先がこの世界レベルの外側(物質)か内側(精神)かの違いだけで、自我の探究し続けるという力動が変わらずそこに働いていることになんら違いはありません。
自我が探求するものは、外側であろうと内側であろうと常に個人的な利益や問題解決の追求のみです。
そこには必ず他者と切り離された自己という分離の概念が横たわっています。
この分離の概念によって真の問題の原因は否認され、また否認されたものは必ず外の世界に投影されることによって、あたかも問題の原因が目の前の出来事の方にあるように見えます。
そしてそのように知覚されたならその問題は実在していると判断されるのです。
こうして大概のスピリチュアルな学びは、世界も、個人的な自己も、改善すべき問題も確かにあるという前提の元、その解決に走り出します。
あなたにとってスピリチュアルな学びの目的が
「この世界でより良く、また豊かに生きるため」
というのなら自身を欺いていることになります。
この世をうまく渡り歩くための処世術としてスピリチュアルな学びを探求するなら、あなたは自身の本当の力を喪失し続けることになるのです。
自我はこの世界の中にあなたを幸せにするものがあると誘惑します。
そしてそれが真に意味しているのは常に
「私は小さくて弱く傷付きやすい不完全な存在である」
という信念の強化であり、
「その不完全さを満たすためにあなたはこの世界で幸せを探求しなさい」
という自我による絶対的なあなたに対する要求でもあります。
これによって神に創造された、無垢なる完全な神の子という真のアイデンティティが隠蔽され、今や完璧な神の愛の方が恐ろしいものに変わり、分離し不足した人の子という概念の方が大切にされ続けています。
ですがもし、あなたにとっていまだに大切にしたいと思えるスピリチュアルなものがあるとしたら、それがまだあなたにとっては必要であるという証であることも忘れてはなりません。
なぜなら、あなた独自の目醒めのプロセスにおいて、それがまだまだ役に立つからあなたの目の前に現れているのです。
そうして、「健全な自我」が熟していき、あなたにとってそれがもう役に立たなくなってきた段階で、全く新しい「真の自己」へと導かれる道が出現するか、または新たに形を変えただけにすぎない教えへと連れて行かれるかの二手に別れます。
自我の主張はいつだって私たちに探求することを命じながらも決して真の答えを見つけ出してはならないという狂気じみた矛盾する要求をしてきます。
自我にとっては真なる愛は隠しつつも、この世界の中の真の愛の代替物という偽物であればその探求が容認されているのです。
したがって、自我に一体化したあなたの行う探求は必ず挫折する運命にあります。
また自我は、あなたと自我が同一であるとも教えるので、自我による導きは、自滅と知覚されるもので終わる以外にない旅へとあなたを連れていきます。
というのも、自我は愛するということができず、その狂信的な愛の探求において、自ら見つけるのを恐れているものを探しているからです。
こうした探求は眠りに堕ちた神の子にとって完全に不可避です。
なぜなら、自我はあなたの心の一部だからであり、またそのような自我の起源の故に自我は完全に分裂しきってはいないからです。
そうでなかったなら、自我が信じられることはまったくあり得ません。
それを信じて、存在させているのは、あなたの心だからです。
ですが、自我の存在を否定する力をもっているのも、あなたの心です。
そして、自我があなたをどんな旅に連れ出そうとしているのか、その旅の正体を悟るとき、あなたは確実にその心の力を行使するようになります。
スピリチュアルな人生の後半期で登場する新しい道は、あなたにとっては非常に気に食わない道であり、尻込みをし、恐れを抱くような道でもあります。
なぜなら、あなたの願望に全くそぐわない道だからです。
これまで価値を置いてきたあらゆるものには全く価値がなかったと言われるようなものだからです。
自我はこの教えに対して警戒を怠りません。
「真の自己」へと導かれる道は自我にとっては自身の存続をかけた問題であるため大音量で警告を鳴らし、あなたをこれまでの道へと引き返すように忠告してきます。
この誘惑は強烈で、多くの人がまた形を変えただけのスピリチュアルな教えに舞い戻ってしまいます。
これらの教えが本質としていることを端的に言うならば、自身の欲を一番に探究したいということです。
自我はこの一点を用いてあなたを誘惑し、この世界と肉体にあなたを閉じ込めておこうとします。
この時期は享楽的な生き方に魅力や価値があり欲望を満たすことが動機になっていて、そこで手に入ったものが自身の喜びへと繋がります。
これは内的変容が起こるまでは必然的なプロセスであるため決して悪いことではありません。
実存主義の創始者でありデンマークの哲学者のキルケゴールは、人間には三つの精神レベルがあると言っています。
人間が「真の自己」へと至るには「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」の三段階が必要であるというのです。
この三つの段階の特徴を考えて、最終的に「宗教的実存」に向かうことが本当の生きる意味だとキルケゴールは考えました。
ちなみに第一段階の「美的実存」では、最適な異性との恋愛や結婚の成就、経済的な安定や健康に対する安全などに価値の基準が置かれている段階です。
その手段が人によっては物質的のものに現れたり、また精神的なものに現れたりするだけで、その動機はどちらも個人的な自己のアイデンティティを高めたり肉体の保護や改善、また見た目を飾り立てることに惹かれるという意味においては全く一緒です。
この時期に人生の豊かさを味わいつつも、その先には結局、幸せは長くは続かないという虚しさによって深みのある気付き(洞察力)が鍛えられていきます。
他の二つの段階を簡単に説明しておくと、
「倫理的実存」は自分の欲を満たして幸せになることに限界を感じたので、他人を幸せにすることで自分の幸せを見出したいというものです。
換言すれば、自分の利益よりも社会に貢献したい、人の役に立ちたい、人から喜ばれたい、人に何かを与えたい、といったものが動機となってきます。
この段階も「美的実存」を支えている信念と同じように、この世界と個人的な自己は実在していて、肉体によって他者と私は切り離されているという信念が前提にあります。
「宗教的実存」は自分の心が救われることと他者の心が救われることを同時に達成したいというものです。
そこにもはや、私と他者の区別はなく、個別の願望もありません。
私と他者は一つで結ばれている兄弟姉妹であり、望むものも進むべき道も完全にここでは一致しています。
この段階では、自然体であること、ありのままの自分であること、私には何の不足もなく、何が起ころうとも私は平安でありこのままで幸せであることが自覚されていきます。
「美的実存」の段階にあるとき私たちはスピリチュアルな教えを、個人的な自己の欲求レベル、つまり肉体レベルにまで縮小し、また歪曲してしまうため真実を幻想のレベルに持ってきて扱おうとしてしまいます。
これは自我の常套手段であるため、私たちはこの誘惑に負けて何度も同じ階層を行ったり来たりしてしまいます。
そして一つの人生において、これは幾度となく繰り返されたのちにようやく手放せるようになるのです。
大切なことは、これに巻き込まれているときはこのことに気付くことはできないということと、もっと高い視点で見ればこの時期もまた必要不可欠であり「健全な自我」が育まれるまではこれが何度も繰り返されるということです。
こうした心の変遷は以下のウイングメーカーの資料からも読み取ることができます。
ウイングメーカー哲学ではこのプロセスをスピリチュアル・アクティビズムとして扱っています。
要するに「目覚めのベル」という解放のプロセスへと移行する過程において、自我の分離の概念を強化する誘惑に私たちは何度も晒され、その度に幻想世界へと眠り堕ちていくということです。
当然のことながら、誰も自分を完全に挫折させるものを見つけたいとは思いません。
愛することのできない自我は、愛の臨在の前では完全に力不足でしかありません。
そうすると、あなたはこれまで頼ってきた自我の導きを捨てなければならなくなります。
なぜなら、あなたに必要な答えを自我が教えてくれなかったことがここで明らかになるからです。
それ故に自我は愛、そして真実を歪曲することで自我にも教えることができるような形へと愛を偽装した上であなたにそれを教えようとします。
ですから、自我の教えに従うならあなたは愛を探し求めますがそれを認識することはできないのです。
眠りに堕ちた神の子である私たちは、答えのない場所で答えのようなものだけを探すことが許されているのです。
スーフィーのナスレッディン・ホジャの物語がその良い例なので紹介します。
探しものが暗がりにあるとわかっているのに街灯の下を探すのは、探す行為で自分を慰めているにすぎません。
間違った場所で何かを見つけたとしても、やがて探していたものではなかったことに気づき、あなたは失望することでしょう。
自我の誘惑とはまさにこれなのです。
世界の中にあなたの探し求めているものは見つかりません。
地獄の中に天国はなく、牢獄の中に自由は決して見つからないように救いのない場所に当然救いは見当たらないのです。
あなたがスピリチュアルな教えの中に真実を探そうとするなら、その動機となっている原因を疑ってみることです。
そこには必ず自我によって巧妙に偽装された愛の模造品だけが散らばっています。
自我の心はあなたを愛してはおらず、自らの意のままに自らの夢を満足なものにするためならどんな役割でもあなたに与えます。
自我にとってあなたの価値はまったく取るに足らないものなので、あなたはこの世界という無為の夢想の中で思いつかれた無意味なドラマに沿って、跳んだり騒いだりしながら踊る一つの操り人形や影法師に過ぎません。
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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参考書籍