イエス。
キリスト・イエスよ。
私は真実を求め、転がり、落ち、崩れ、砕かれながら、
こうしてここまで来ました。
すべての経験が私が真実を受け入れるために必要なことでした。
すべての出来事が私が本当の自由を知るのに必要なことでした。
経験しなくていいことはひとつもなく、
起きなくてよかったことなどひとつもありません。
真実は私がこれまで重ねてきた数々の人生で得た法則とは真逆でした。
そして私は決してそれを知りたくなかったのだと知りました。
聖霊はどんなときも私を見放さず、私を見失わず、
私がまったく気づいていなかったのに、いつも手を差し伸べてくれていました。
そして実際に助けてくれていました。
私がその時信じていることに沿ったものを差し出してくれ、私がそれを経験するのを見守ってくれていました。
今、私は誰かを知りました。
今、私の役割を知りました。
この世界がなんであるのか、
なぜここにいるのか、
なぜこの世界で生きるのか、
知りました。
私は元々私がいた場所に帰りたいと思います。
本当は一度も離れたことがない、その場所に帰りたいと思います。
この世界にいる間は、神がこの肉体に与えた役割を果たしたいと思います。
これまでの自我の見方は捨てて、心眼で世界をすべてを見たいです。
なのに、私の心(自我)は狂ったままです。
元々いた場所になんか帰るもんか!と言います。
神を恐れ、憎み疑い、この世界にずっと隠れていたいと思っています。
イエスを遠ざけ、聖霊の声に耳を塞いでいます。
うそだーーー!と喚き静まって聞こうともしません。
その証拠に、
またこんな小さなことにイライラします。
過去に起こったことを現実に起きたことと見て、
恐れ、不安に感じたりします。
肉体の目に映る出来事を現実と信じ、そのひとつひとつにこの肉体で対処しようとします。
自分が判断し、自分が解決しなければならないと思っています。
そうじゃないと学んだのに、
心はそう動いてしまうんです。
聖霊は私の言葉ではなく、私の心で本当に願っていることを見ています。
心が本当に願っていることは、私がもう願いたくないことです。
だから私は私の心で願っていることに赦しをします。
この狂った願いは取り去ってもらわなければなりません。
でも赦しは、私の言葉でなされます。
私の心を私はコントロールできません。
でも。
私は私のセロファンの欠片くらいの薄い希望を差し出します。
私は心眼で見たいのです。
私は父と兄弟とひとつであったところに帰りたいのです。
私は父が私に意志した私の役割を、この地で全うしたいのです。神の意志と私の意志を合わせて、
この地での残りの時間のすべてを私の肉体のすべてを捧げたいのです。
どうかこの願いを受け取ってください。
この狂った心を取り去ってください。
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