アンメットの主題歌『会いに行くのに』を深掘り解釈したらやっぱり”愛を求める叫び”でいっぱいだった
前回はドラマ-アンメットが愛に溢れる素晴らしい作品であることをストーリーにフォーカスしながら形而上学の側面から解説してみましたが、今回はこのドラマの音楽にスポットを当ててみたいと思います。
素晴らしいドラマってそのストーリーや役者のみなさんの演技の良さだけでなく、それを支える音楽もやっぱり大切ですよね。
「会いに行くのに」はドラマの終盤で登場人物たちのほっこりする場面にぴったりの爽やかな曲でしたし、それに対して「縫い目」の方はミヤビが記憶障害になった背景とそれに関わる謎を想起せるようなミステリアスな雰囲気の曲でどちらも、作品を盛り上げてくれました。
今回は「会いに行くのに」にフォーカスして深掘りしていきますが、「縫い目」も同じくらい素晴らしいメッセージを持った作品なのでいつか記事にする時が来るかもしれません。
さて、これから始めていく訳ですが、一つ注意してもらいたい点としてここで解説していくような内容はご本人が必ずしも意図したものではないということです。
なぜなら、理解の抽象度によってそれぞれの人の見え方や意味するところの捉え方が変わってくるからです。
理解の抽象度とは、物事をどれくらい大きな視点で俯瞰的に捉えられるか、または引きで捉えられるかを表す言葉のことです。
この理解の抽象度が大きければ大きいほど一なる愛の視点で本質を捉えることが可能になっていきます。
しかし、それぞれの人が自分なりの解釈があるのは当然のことであって、そのどれもがその人にとって意味を成すものであるし、その人がそのように見たいと望んでいるものが見えるためにどんな捉え方にも間違いはありません。
ここでは、その一側面である解釈を提案するに過ぎません。
こんな見方もあるのかって感じくらいに思って頂けたら幸いです。
ですので、僕自身としてはご本人の意図や歌詞にある言葉そのものの形に囚われることなく、その形を成している本質の部分に焦点を当てることで、すべての人に共通する望みや目的が垣間見れるような解釈をなるべくしていきたいと思っています。
ではAメロから見ていきます。
とあります。
OFFICIAL INTERVIEWを読んでみると分かる通り、ここはあいみょん自身の過去の苦い記憶として今でも残っているバレンタインの思い出がベースとなっているようです。
私の想いは相手に望むような形で届かなかったために、その後に用意していたプレゼントのリングも渡しそびれる形となってしまった。
つまり、望みが叶わず満たされない(アンメット/unmet)状態が今も続いているということが読み取れます。
Bメロへと続きます。
”これが夢だったら”
”この経験や記憶が実際には起こっていなかったなら”
この世界は形而上学的に観れば、そしてコースの中でイエスが語っているように世界を観るなら、ここはまさに神から分離しておくための夢の世界であり、現実に見えるものは私たちが作り出した幻想ということになります。
ですから、例えどんな失敗や後悔、またトラウマ的な経験といった罪の意識を信じていようとも実際はそれらは起こっていません。
しかし、私たちがこの夢の世界の中で分離した一個人として肉体を持った存在であると信じている限りは、それらは実在するように見えるし、自分や相手や世界の中に間違いや罪が存在しているように思えるので苦しみは消えませんし、満たされることもないように感じてしまいます。
”何度も分かったふりをして”
”自分の頭で考えて導き出してきた答え(自我の狭い見識)を握りしめて”
私たちは自分の望んでいるものは当然知っていると思っているし、自分の考えも無意識的に正しいと信じています。
しかし、その無知さによって自身を欺き続けています。
その結果、自分が本当は何者であるのかを否定し続け、欠乏感の絶えない弱く劣った自分を信じ続けるのです。
”傷つけない方法を見つけたい”
”この世界のすべてのものを傷つけない方法を見つけたい”
その方法とは自分自身の認識が変わることです。
私は何者なのかという自覚によって世界には自分が傷つくような危険なことは何もなかったと気付きます。
この世界ではそれは赦しを通して達成されます。
赦しとは、スピリットの眼差しにさらして、問題を見つめてもらい自我(エゴ)の反応や自我の間違った世界の見方を取り消してもらうことです。
赦しは、この世界の正さなければならない罪や間違いや問題の数々を大目に見ることで実在させることではなく、それがはなから起こっていなかったと認識することです。
分離は一度も起こっていません。
分離が起こったと信じている間だけしか問題は存在できないのです。
今でも私たちは一なるもの(ワンネス)です。
一なるものは完全であり永遠、そして不変です。
完全で永遠で不変なものは傷つくことも傷つけられることもありません。
私は身体ではなくスピリットであるという認識のシフトによって全ての問題は消え失せ、その確信が起こるための手段が赦しなのです。
赦そうとしない心だけが、自分も相手も傷つけ続けるのです。
続いてサビの部分です。
”あと何回同じ冬を通り過ぎて”
”あと何回、この世界で生と死を繰り返したら”
”錆びたままの部屋で”
”最終的には苦しみに転じてしまうだけの幻想世界で”
釈迦がこの世界は”一切皆苦”と説いたように、喜びも幸せもこの世界では永続せず最後には死が待っています。
ですから悟りを求めて早くこの六道輪廻の世界から目覚めて出てきなさいと言っているのです。
世界は錆びたままで救いや導きを否定し続ける閉じた部屋です。
それは牢獄であり、私たちが今でもこの世界に執着することで抜け出せなくなっている監獄です。
世界や他人に罪や間違いを見て咎めるなら、その咎めが自分自身をこの世界に閉じ込めるのです、
なぜなら、その咎めている対象は私たちと切り離されていない私たちの一部だからです。
”君を待つのは寒すぎる 心ももたないよ”
”真の自己であるキリスト(ハイヤーセルフ)を待ち望んでも肉体である自分を信じている私の分離して病んだ孤独な心はもうもたないよ”
”初めてのあの日に戻ったなら”
”神からの分離を信じる前の神の子としての記憶を取り戻せたなら”
”明かりの無い街も”
”真理に暗く、自我に支配された恐れからなる幻想世界も”
”愛して 愛を知って 会いに行くのに”
”赦して、神が何であるかを知って、そして私の真のアイデンティティである神の子へと還るのに”
私の見ているこの苦しみの世界は自分が作り出したことを認めて赦す(自我の間違った見方を手放す)ことで、神に対する罪悪感が聖霊によって取り消されると癒しが起こり無罪性のワンネスの中へ還ることができます。
2番Aメロ
”0時過ぎた頃には”
”歳を取り寿命を迎える頃には”
”望みなく眠るんだ”
”何の希望もなく死を迎えるんだ”
”数えてるひとつずつ記憶を断つ”
”何度も生まれては死ぬを繰り返して数えているうちに、天国や神の子としての記憶はすっかり絶たれた”
2番Bメロ
”これは夢でした”
”私がしてしまったと思ったことは全部夢で実際には起こっていませんでした”
”頭抱えすぎた僕だから”
”神からの分離を信じて(罪悪感を感じて)ただ深刻になっていただけの私だから”
”何度も踏み込んで 転んで 傷つき 日を跨ぎ 朝になる”
”何度もこの世界に生まれてきては失敗して傷つき苦しんで、そして寿命が来て死を迎えてはまたこの世界に舞い戻ってくる”
神から分離したことを信じ続けているという自分の中の罪悪感を認めないが故に、その罪悪感が世界に投影され、その投影された罪は世界に様々な形態(病気、貧困、戦争といった不調和)となって現れ、その自作自演によって作り出された問題の根本原因を認めることなく、世界の問題の方を正そうとする行為の全てが、問題をさらに実在化させ真の原因は覆い隠されてしまいます。
何度もこの世界に生まれては死に戻ってくる原因がここにあります。
世界や他人の罪を赦そうとしない思いは、解放したくないという私たちの選択によって自らも監獄の看守とならざるを得なくしてしまいます。
自分の自由をいつまでも奪っているのは、自分自身の世界や他人を監視していなければいつか自分に危険が及ぶかもしれないという無知さによって起こっているのです。
世界は私の心を映し出している鏡に過ぎないのだから世界に罪を見ずに赦そう、解放しようと決断し、そのように実践しながら生きれば自分が与えた無罪性を受け取るのもまた自分なのです。
なぜなら、全てはひとつで全てが私だからです。
2番サビ
”あと何回同じ服に袖通して ヨレたままの裾も”
”あと何回この傷つき疲れやすい肉体に生まれ変わってくるのか”
”君が隣に居てくれたら 寒さもしのげそう”
”私が何者であるかを正しく観てくれている存在が隣にいてくれたら、この孤独や悲しみといった分離を信じていることによって生じる罪の意識も感じることなく生きていけそう”
”始まりは終わりを告げていたの? ”
”生まれてくるって実は死ぬことを意味していたの?”
神の子は神によって創造されたが故に生まれもしなけば死にもしない永遠の存在です。
そして、理解の抽象度をもう一つ上げた実相レベルの解釈は
”始まりは終わりを告げていたの? ”
”えっ!分離したと信じていたけれど、その瞬間に実は神の慈悲によって分離の想念は取り消されていたの?”
つまり、私には一切罪はなかったの?という気付きです。
実際に分離は起こっていないが、それを信じている信念によってそう見えているだけに過ぎないのです。
”冷えた手のひらがもう”
”何度も生まれ変わって傷つき疲れた身体はもう”
”忘れないで 覚えていて”
”私たちが今でもどこにいて何者であるかを忘れずに覚えていたい”
私たちは今でも神と一つの神の子であるスピリットとして完全なまま天国にいますが、神から分離したという夢の中で自分を肉体という小さな存在に仕立て上げることでこの二元の世界を経験し続けています。
その中では天国と私自身の真のアイデンティティの記憶は消されており、またその記憶障害があるからこそ、この世界を体験しているのです。
ですから、夢から覚めるまではこの世界やこの身体の方がリアルに感じるのです。
”震えているぞ”
”そのことを教え導く存在たちが私たちの内側からいつも語りかけているぞ”
Cメロ
”あんなに近くにいたのに”
”天国にいた頃は神と神の子である私は一つだった確信があるのに”
”そんなに変わってないのに”
”今も実際は神に創造されたままの存在として天国にいるのに”
”やっぱり寒さには弱い”
”やっぱり分離を信じている私には、この世界が実在しているように見えて、様々な危険な出来事にはこの身体はあまりにも頼りなく弱すぎる”
”もっかい 君に触れたい ”
”もう一度、本来の私自身を取り戻したい”
私が神と神の子が一つであることを思い出すために、自我(エゴ)の手を取らずに、真の自己(ハイヤーセルフ)であるキリストと、またその助けや導きとなるイエスや聖霊の手を取りたい。
ラストのサビも1番と同じ解釈ですので途中まで省略
”愛して 愛を知って ”
”赦して 神こそが愛であることを知って”
不平不満を手放すという赦しを通して(他人が行ったかに見える罪や誤りを看過して)目の前の人の内側にキリストの光を発見することでそれが実は私自身であり、神でもあったということを知って。
”会いに行くのに”
だから私は他人であると思っていた兄弟姉妹に今、会いに行きます。
”会いに行くのに”
その人たちの内側に私と同じ光を見つけるために今、会いに行きます。
”会いに行くのに”
私たちは一なる自己として今なお神と一体であることを証明するため、愛を持って兄弟姉妹に会いに行きます。
「アンメット」そして、「会いに行くのに」を深掘りするにあたって見えてきたのは、全人類が抱えている満たされない想いが、愛(神)を探し求めて叫んでいたのであり、あいみょんの歌は私たちの愛を渇望する声の代弁だったと解釈することができます。
満たされず、未だ達成されてもなく、また果たされていない約束を果たすために私たちは目の前で起こる一つひとつのものごとを新たな視点で観る必要があります。
この素晴らしい作品を通して、会いに行くとは愛を求め続けること、そして自身が世界に愛を観るという決意を持つことの大切さを改めて感じることができました。
あなたにとってもこの解釈が少しでもこれからの人生の役に立つことがあれば幸いです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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