天上のアオ 1
時空間座標:xx0xx7。計測値に異常。
首から吊るしてあった携帯式の計測器を確認する。数値はレッドゾーン。ここも汚染が酷い。長くは滞在できないだろう。早く安全な場所を見つけないといけない。
「ここも危ないみたい。行こう。立てる?」
苔むした瓦礫、かつて建物の壁だったであろうそれにもたれかかってうなだれる同行者に声をかける。返事はない。相変わらず彼は腹を押さえながら震えている。
遠くを見渡せる鉄骨の上に立っていた私は、たん、たん、と音を立てて下り、彼のそばに寄る。
「大丈夫?息はできる?」
「…苦しい。ずっと、苦しい」
私より汚染を受けやすい彼は、このエリアに入ってから断続的な発作に襲われていた。私はヒップバッグしまってあった簡易注射器を手探りで取り出し、投与しやすいように利き手に持ち替えた。もうこれも残りがほとんどない。
「ごめん、ちょっと我慢してね」
そういうと彼の頸動脈に注射器を突き立てる。プシュッという音ととも薬剤が空気圧で彼の体の中に入っていく。即効性はあるが、持続性はそれほど期待できない。でもないよりはマシだ。
「手、繋ごうか?一人で歩くの大変でしょ?」
携帯型計測器がアラーム音を発する。レッドを通り越してブラックになってしまったら、私も危険だ。なによりも、彼のためにも早くここを離れなければ。
「おれ…こんなにしてもらう価値なんてないよ」
彼が涙声でつぶやく。
「価値は命ある限り嫌でもくっついてくる。あなたがどんなに自分の価値を否定しても、くしゃくしゃになった1万円札に変わらず1万円の価値があるように、あなたの価値はなにもかわらない。だからとにかく今は安全な場所に行こう?」
きつい言い方になってしまっただろうか。でも今の私たちはなんとしてでも生き延びなくちゃいけない。なにより、彼には待っている人がいる。その人のところまで生きて送り届けるのが私の使命なんだ。
「あの子が待ってるんでしょ。そのために生きるんでしょ。あなたは私が守る。だから行こう?」
薬が効いて発作が緩和されたのか、ようやく防御姿勢を解いた彼が私の差し出した手を握る。お互いグローブ越しだから体温は伝わらないけど、繋がりを感じる。そのまま彼を引っ張り上げた。
「よいしょっと。うん、頑張ったね。行こうか」
彼は相変わらず暗い顔のまま、それでも頷いてくれた。
上着の大ポケットに仕舞ってあったタブレット型の端末を取り出す。衛星の信号はまだ生きているらしい。しかしこのあたり一帯、少なくとも半径5kmは人間の滞在に適さない空間になりつつあった。地図上にアメーバみたいに広がる危険区域の表示を見て、唇を噛んだ。これ以上現実性が薄まってしまえば、彼はともかく、私は存在を維持できなくなってしまう。
「帰りたい…」
彼がつぶやく。
「帰ろう。きっと大丈夫だから。今は信じよう」
端末を仕舞いながら言葉を返す。
今はとにかく時間を稼ぐことが必要だった。そのために私たちは安全な場所を確保しながら、1ヶ月の間逃げ続けていた。おそらく今後数ヶ月は同じことを続ける必要があるだろう。
携帯端末に表示された方角に視線をやる。ぐちゃぐちゃに壊れた町並み、陽炎のように立ち上る正体不明のゆらめきが見える。彼に残された最後の希望は、このずっとずっとずっと先にある。
「っ…!」
彼と繋いだのとは反対の手、携帯端末を持つ手に違和感を覚える。グリッチ加工されたように、私の手にノイズが走って消えた。まずい。もう時間がない。
「行くよ。手、ちゃんと握っててね」
ミリタリーブーツが瓦礫を踏みしめる音が二人分、廃墟になった心象世界に不自然なほどきれいに響いていた。