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天上のアオ 13

男と別れ、わたしは歩き出した。
重苦しい音は相変わらず上空から響いてくる。

限界が近い。
わたしの直感がそう告げている。

他のパーツが彼の行動に影響を及ぼす前に、彼を保護しなければならない。現実の彼が苦痛に耐えかねて自己の終了を決行する前に、安全な場所に行く決断をさせなければならない。

上空の暗闇を睨み据える。
行けるか?今の私に上層まで飛べる力があるか?

いや、やるしかない。

わたしはイメージする。
今この空間はある種の液体に満たされていると。わたしはその中を泳いで、上まで行く。
ここは言ってしまえばイメージの世界だ。外の世界の物理法則は無視できる。

両足に力を込めて、跳躍する。
飛び上がったわたしの体は、重力に縛られることなくその場にゆらゆらと浮遊した。成功だ。このまま意識の海を上に上に泳いでいく。

当然この方法にもデメリットは存在する。
わたしは意識を大きな連続体としてイメージの中で置き換えた。
それはつまり、彼の思考や感情がダイレクトに入ってくる可能性があるということだ。今のわたしに耐えられるかは未知数だが、それでもいかなくちゃいけない。外界の時間であと48時間後には彼は何かしらの決断を迫られる。そのときに安全な場所へ行く後押しができる程度まで、わたしは上にのぼらないといけない。

意識の海を泳ぐ。両手で水をかき分け、バタ足で上に進む。本物の液体ではないから、呼吸の心配はいらない。

「…ッ」

早速感情のフィードバックが来た。お腹の中を絞られているような不快感。
彼の感じる身体感覚。不安、焦燥、絶望、恐怖。

(支えがない。錨がない。流されるままに流れていくしかないんだ)

今の彼は身の安全を他者に委託しないといけないくらいの状況になっているはずだ。

「ぅ….グ…」

感覚と感情、そして今度は記憶が見える。

(だめだよ。それは今見てはいけない。わたしたちはそれを避け続けてきた)

喪失感が伝わってくる。それと同時に、なんとかなるかもしれないという期待も感じられる。

(それはあなたが苦痛のあまり生み出した妄想でしかない。だから今を取り戻して)

私の思いがどれだけ彼の行動や感情、思考に影響を及ぼすかはわからない。それでも今の彼はあとひとつの要素が加われば簡単に死んでしまう。表面張力でいっぱいになった水に一滴垂らしてあふれるのと同じだ。

(聞こえてなくても良い。あの手紙を遺書にしちゃいけない。ものすごくつらいけど、あなたはまだ死んではいけない)

「う…ぁ」

意識の海の上に向かうたび、彼からのフィードバックが強くなる。わたしは自分が泣いているのに気づいた。

(こんなにつらい思いをしてるんだね。でもそれは誰かを傷つけた結果だということもわかってるんだね。だから苦しいんだね)

できることならわたしが彼を抱きしめてあげたい。内面の脅威からも、外的な脅威からも、わたしが守ってあげたい。けれどそれはできない。わたしは彼の心が切り刻まれたその断片の一つ。物理的な存在ではないから。

どれほど泳いだだろう。
やがてあの虚無の世界で見たような、一点の光を見つけた。
たぶんあれが最上層の入口だ。

それを認識した瞬間、脳がかきまわされるかのような不快感に襲われる。

「う…ああああ」

思わず頭を抱えて叫ぶ。
涙が止まらない。

(帰りたい。ただ、それだけなんだね)

(つらいこともあったけど、自分の居場所はそこだと想ってるんだね)

(そしてそれを自分が壊したこともわかってるんだね)

だからわたしは彼を死なせられない。
チャンスが与えられるかはわからない。それでも現実を修復するためには、彼が精神的に安定な状態を保ち続ける必要がある。

わかってる。頭ではわかってるのに。
なのに体の動きがだんだん鈍くなる。
わたしの頭に感情が侵入してくる。

「いやだ…もう、いやだよ…どうして…苦しい…楽に、なりたい」

こめかみを押さえる代わりに片目をぎゅっと瞑る。
それで痛みに耐える。

光は確実に大きくなってきている。
ちゃんと近づけている。

あの先にたぶん彼がいる。
どんな姿をしているかわからない。人間の形を保てていないかもしれない。どんな場所かもわからない。それでもいかなくちゃいけない理由がある。

彼は危険な場所にいる。だけど他に行く場所がない。獣性を司るあの男が言ったように。現実ではこれから彼がおそれていることが立て続けに起きる。その間彼の命が耐えられるとは思えない。

機能的な考えは思い浮かばない。そんな治療法ごときでどうにかなるレベルの状態ではすでになくなっている。緊急で保護されないといけない状態に彼はある。それを自分一人の力でなんとかしようとしてしまっている。

涙は止まらない

(どうしてそこまで頑張るの?自罰?自責?)

いざというときに事を起こせるセッティングをしている。そのことを彼は誰にも言わず一人で抱え込んでいる。むしろ安心しているのか。いつでも死ねることが、彼にとって安心材料になってしまっているのか。

(わたしはあなたのことが大切なんだよ。わたしに形と名前をくれたあなたのことが本当に大切なんだよ)

だけど、きっとそうじゃない。彼は自分と同じ人間の助けを欲している。わたしはどこまでいってもパーツ以上になれない。だからわたしができることは限られている。

「い…きるのが…こわい…しぬ…のもかな、しい」

彼の感情が私の口をついて出る。
かなり上層まで来られた証拠だ。

「お…ぇ…」

激しい嘔吐感。でも吐く感覚だけで口からはなにも出ない。
わたしは片手でお腹を抑えながら、もう片方で意識の海をかき分ける。
幸い、足の感覚は奪われてはいない。ちゃんと動かせている。

光が近い。
すくなくとも人一人分の大きさくらいにはなった。

あの先に彼がいる。
苦痛からの解放を待ち続けている。自分でそれをやろうとしている。
だからわたしはそれを食い止めに来た。
あなたはそんなふうに死んではいけない。
あなたに必要なのは、死ではなく安心できる場所なんだ。

光はどんどん大きくなり、私の体を飲み込んでいく。

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