天上のアオ 14
まばゆい光の中、わたしの足が地面をとらえた。
残る浮遊感でバランスを崩しながら、なんとか両足で立つ。
光の先にあったのは、フローリングの部屋だった。
中央に机があって、そこに置かれたノートPCのディスプレイが座るヒトの輪郭をぼんやりと照らしている。
彼だ。
正確には彼の感情と思考を制御する最上位のパーツ。
フローリングの一面にはプリント用紙がばらまかれ、その数は机に近づくほどに多くなっていく。わたしはその一枚を拾い上げた。
遺書だった。
楽しかったことをひたすら羅列し、それらを壊したのは自分で、だけどこの状況に耐えられなくなったから死ぬ。
そう書かれている。
異様なのは床だけではない。
壁も一面に切り傷だらけ。ところどころ割れているところもある。
そして切り傷からは赤い液体が流れて、その下の床に水たまりを作っていた。
彼の座る椅子の周りにも同じ赤い水たまりができている。
わたしは遺書で覆われた床を歩き、彼のもとに近づいた。
「これ、全部書いたの?」
背中に語りかける。彼は頷いた。
わたしは彼にさらに近づき、椅子の背に手をかけて顔を覗き込んだ。
真っ赤な目からは涙がとめどなく流れている。
まくった腕にはいくつもの深い切り傷があり、そこから流れる血が床に溜まっているようだった。
「怪我、してる。手当しなくちゃ」
激しく首を振る。
その首にも赤いあざのようなものができているのを見つけた。
「うまく、いかなかった?」
うなだれるように頷く。
「ねえ、手紙、そろそろ届いた頃なんじゃないかな」
彼は答えない。
ひたすらキーボードで言葉を打ち込んで遺書を書いては、床に置かれたプリンターに送信している。プリンターは言葉を吐き出し続ける。
「わたし、すこしお話してもいい?」
無言。だが彼の横顔は拒否を示していなかった。
「あなたは思い出してるんじゃないかな。あの日のこと。あの葬儀の日のこと」
手が止まる。
「後輩のお葬式。あなたは行ったよね。亡くなった子の子どもがいるのを見て、とても悲しくなったよね」
無言で涙を流す。
「それを再現してしまうことがこわいんだよね。つらいんだよね。死んだあとのことには関心がないって言っても、想像しちゃうんだよね」
頷く。再び手が動き、遺書の続きを書き始める。
「伝えたいことがたくさんあるんじゃないかな。だからこんなに紙が散らばってるんじゃないかな」
伝えたいけど伝えられない。だからこの部屋にはこんなに手紙が溢れている。彼はわかっている。気持ちには伝えるべきタイミングがあるものだと。そして彼が一番伝えたいことを伝えるのは今ではないと。それに絶望しているのだ。先は長いかもしれないという予感に恐怖しているのだ。
「あなたは償おうとしている。その必死な心はちゃんとわかってるよ」
それが伝わるかは別問題だ。あくまでこれは自己の内面の話。
「あそこに行くのは嫌なんだ」
「よかったら、どうしてか教えてくれるかな?」
「縛られる。自由を。尊厳を。そしてどれだけ効果を上げたとしても、帰ってきてしばらくしたら戻ってしまう。意味がない。今こうしていることがなによりの証拠だ」
「そっか。確かにそうかもね。安全だけど、それは自由が制限されたうえでの安全。あなたはよく知ってるもんね」
涙を流しながら頷く。
「わたしたちにはさ、頼れるものが少ないよね。帰る場所もないし、すぐそばで助けてくれる人もいない」
無言でキーボードを叩く。
「だからこそさ、わたしは使えるものを使おうと思うんだ」
「わかってる。頭ではわかってるんだ。感情がそれを拒絶してるんだ」
「そうだね。それにあなたは恐れているんじゃない?これから起こるイベントに自分が介在できないことを」
「うん。自分の手の届かないところで何かが起こるのが怖いんだ」
彼の肩に手を置く。
置いた部分からどんどん力が抜けていく。
もうこんなに空っぽになるまで自分を罰して、それでもまだ書き続けてる。あなたらしいといえばらしいけど。
「現実の修復には時間がかかる。わたしはそれまであなたを延命したい」
「死ぬという選択肢はときに安心材料になる。それを奪うのか」
「あなたはあの時死ななくてよかったって想ったはずだよ」
「…」
「死ななかったから見られた光景だなって、あなたは想ったはずだよ」
その時、確かに喜びがあった。それは彼自身にも否定できないことだ。
「俺は」
「うん」
涙声で言葉に詰まった彼を待つ。
「帰りたい」
「うん」
「ほかにはなにもいらない。ほかの何もかもを擲ってもいい」
「うん」
「帰りたいよ」
「そうだね」
キーボードを叩く手が止まる。
真っ赤に泣きはらした目が、わたしを見る。
お腹のあたりに苦しさを感じた。不安だ。
こんなに強い不安を抱えたまま、ここで生活し続けるのは危険だ。
少なくとも安定して現実の修復ができるようにはならない。
「ねね、プレゼントを選ばない?」
あえて明るい話題を出してみる。それでいて、彼の苦痛にならないものを。
「プレゼント…」
「そう。せっかくPCがあるんだし、一緒に選ぼうよ」
「そう、だな。それもしなきゃな」
「違うよ。しなきゃ、じゃないの。したい、でしょ?」
「うん。そうしたい」
「よくできたね。そしたら準備、しよっか」
パーツとしてのわたしが持つ力は消防士に例えられる。
火事が起これば駆けつけて、火を消す。修復する。
彼の肩から手を離して、そのまま手のひらを上に向ける。
周囲の空間から光が集まり、一つの形をとる。
包帯だ。
「まずはさ、腕、手当するよ」
彼の横に膝をついて、傷だらけの腕に包帯を巻いていく。現実では縫合が必要なほどの傷だけど、ここは現実じゃない。そしてこの包帯も象徴だ。だからこれで処置ができる。
「よし、と。我ながら上手にできたかな。きつくない?」
「ああ、大丈夫」
彼は腕を揺するように動かして具合を確かめると、私の顔を見た。
「ありがとう」
「どういたしまして」
今のわたしにできる最高の笑顔で応える。
腕の傷は壁の傷と連動していたようで、赤い液体が吸い込まれるように壁の亀裂に消えていく。最後にはその亀裂も塞がった。
「話して落ち着けた?」
「正直、よくわからない」
「そっか。でも気は紛れた?」
「そう、だな。それはそうかもしれない」
「よかった」
彼の手を両手で包む。
冷たい。それに震えている。
「また夜が来た」
「怖い?」
頷く。
「疲れたんだ」
システムの最上位。すべての感情と思考が集まる場所。そして痛みも。そんな場所に一人ぼっちでこれまでい続けたんだ。たとえそれが彼の役割だったとしても、もう限界なんだろう。
「眠るイメージはできる?」
「…やってみる」
床に散らばっていた紙が一枚、また一枚と宙に浮いていき、一枚ずつ光になって消えていく。彼の足元にあった血溜まりが、一滴ずつ宙に昇って光となっていく。
そして光たちは壁際に集まり、ベッドを形作った。
「わたし、ここにいてもいい?」
「いいけど、どうして?」
「あなたが寝てる間、守ってるから」
「君は寝なくていいのか?」
その言葉に思わず目を丸くしてしまった。頬が緩む。
「何言ってるの。わたしに睡眠は必要ない。わたしは心のパーツであって人間じゃないから」
でも、あなたのその優しさは受け取ったよ。
「さーて。プレゼントは何にしようか」
「楽器をあげたいと思ってるんだ」
「いいね。小さいギターとか?あ、ウクレレとか?」
「アコースティックだと穴が空いてるだろ。ものが入ったりするといけない」
「そっか。たしかに。そしたらサウンドホールのないやつでもいいね」
「そうだな。いいのがあるといいんだけど」
「あ、ちょっとまって」
床に向かって手をかざす。
先程の包帯と同じように、集まってきた光がもう一つの椅子を形作った。わたしはそこに座る。いつのまにかブーツはなくなっていて、靴下の足裏が床をとらえる感触があった。椅子を机に近づける。わたしと彼、半分ずつPCを見ているような格好だ。
「あ、これは?ギターの形のおもちゃみたいだけど」
「確かにこういうのもありだな」
「へえ〜、色々あるんだね」
「…ッ」
突然彼が顔をしかめた。
「大丈夫?」
「記憶の侵入。いつものことだ」
「でも今日はちょっと無理しすぎじゃない?明日でもいいんだよ。ネット逃げないし」
「そうだ、な。正直、つかれた」
それはそうだよ。あれだけ自分の心を抉るようなことを一日中続けていたんだ。光になっていった一通一通すべてが彼の痛み。そんなものにまみれて、あまつさえ血を流して。
「明日にしよう?わたし、明日も一緒に選ぶの手伝うから」
「わかった」
そういうと彼はふらふらと椅子から立ち上がる。わたしも一緒に立ち上がって、彼に肩を貸す。ゆっくりとベッドまで歩いて、彼は体を横たえる。わたしはさっきまで座っていた椅子を彼の枕元まで運んで、そこに座る。
「無理に寝なくてもいいんだよ。眠れないときは話し相手くらいにはなれるし」
「だい、じょうぶ。もう、げんかい」
たどたどしく言うと、彼はそのまま目を閉じた。
おやすみ。どうかゆっくり休めますように。
明日はいいことがあるなんて、根拠がないからわたしには言えない。それでもあなたの命がもう一日、もう一日と続くことは、わたしたちの望みなんだよ。