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天上のアオ 11

てるてる坊主の輪を抜け、先に進むことにした。
眼前に広がるのは黒と白の地平線。何もかもから色が奪われた世界。

壁や天井もないのに、わたしのブーツの靴音がやけに大きく響く。地面は一見コンクリートのように見えるが、実際の感触は木に似ている。だが無機質なそれは、きっと木ではない何かでできているのだろう。

心臓がうるさい。
たぶん彼の過度な不安や緊張がここまで伝わってきているんだ。

本当はわたしが交代してあげたい。
でも彼というシステムにその現象は起こらない。
起こらないおかげで、彼はある時点までまともに生活を送れていた。

歩みを進める。
なにかの痕跡を探すように歩き続ける。
それに意味など最初から求めていない。

「あぐッ…」

それは突然だった。
首を閉められたような窒息感。
肺を握りつぶされたかのような苦痛。

そうか。
これが今の彼の身体感覚なのか。
不安、緊張、孤独。
それらがないまぜになって体に襲いかかる。

「う…ぐ…」

胸元を押さえたまま、思わず膝をつく。
たかがパーツのひとつでしかないわたしには、この感覚を受け止めきる力はない。いや、それは彼とて同じだろう。だから苦しんでいる。

わたしは恐れていた。あることを。
それは「あれ」が出てくること。
わたしと同等にして同質の力を持ったパーツ。
怒りと恐怖を代行する、負の感情の化身。

あいつが表に出ていくことだけは避けなければならない。そうなってしまえば、それこそこの4ヶ月の生存闘争が無意味になる。ほとんど殺意に近い強い怒りは感情のバランスを破壊する。そうなったらわたしだってこの姿を保っていられるかわからない。

彼の持つもっとも深い傷。
恐怖の裏返しとしての怒り、衝動。つまりは獣性。

この状況の元凶でもあり、長年にわたって彼を苦しめ続けてきたもの。それゆえに力は強く、一度出てしまえばわたしにも抑えることができない。わたしができるのは、あくまで事後処理だけだ。ぐちゃぐちゃに乱れた感情を時間をかけて調律し、死を先延ばしにすることだけだ。

だがわたしの願いも虚しく、向こうから別の靴音が聞こえてきた。

「よう。繝ェ繝ウ繝」

男の声が響く。
胸を抑えながら見上げると、黒いロングコートに細身のパンツを履いた真っ黒な出で立ちの男の姿があった。どうして。どうしてこいつがここまで来られているのか。ここはわたしの領域のはずなのに。

「均衡が破られた。お前も知ってるだろ」

そうだ。総体としての彼は無理やり獣性を引きずり出される体験をした。それによってすべての均衡が崩れた。ほんのつい最近のことだ。

「外の人間どもは本当に役立たずだな。不用意に刺激すれば簡単に俺は外に出られる。そういう状況だと理解もできてねえ」

「なにを…した…」

「何も。お前とは逆なだけだ。俺はあいつを死なせるための自爆装置」

わたしは彼を守り続けてきた。首の皮一枚という表現がぴったりくるくらい、ギリギリのところで死を先延ばしにしてきた。だというのにこいつが来てしまったら意味がなくなる。

「繝薙?繧ケ繝、彼が死を選べばあなたの存在もなくなる。それはパーツとしてのあり方に反する。違う?」

ようやく胸の苦しさが和らいできた。

「繝ェ繝ウ繝、お前はなぜそこまで苦しみながらあいつを守る?あの虚無の中で聞いただろ。多数決では圧倒的にお前が不利だ。あいつは死を望んでいるし、いつでも実行できるように準備までしている。そこまでのことをする奴だ。なぜ解放してやらない?楽にしてやろうとは思わないのか」

「わたしは彼の持つ願いを知っている。死を望む気持ちと同じくらい、いやもっとずっと大きな願いを持っている」

「その願いは叶うのか?叶わない願いほど恐ろしいものはない」

「叶うかはわからない。それはわたしたちには手出しできない。少なくともあなたがこれ以上何もしなければ」

獣性を司る男は私に近づいてくる。靴音がやけに大きく聞こえる。やがてわたしの眼の前まで来た男は、膝をつくわたしの前でしゃがみこんだ。

「理解されない苦しみがお前にわかるか?もっとも理解してほしかった人間にそれを望めないと知った時の絶望を知ってるか?苦しみも絶望も堆積すれば怒りに変わる。それこそ殺意といっていいくらいに」

この男は決して悪性ではない。善も悪もない、ただ純粋な恐怖と怒りの具現だ。

「俺はこの状況が許せねえんだ。結局何年生きたところでなにも願い通りになりはしない。当たり前だよな。人を変えることなんてどだい無理な話だ。あいつは育つ中でバケモンになっていった。傷がひとつ増えるたびにヒトから離れていった。繝ェ繝ウ繝、お前も聞いたはずだ。自己の存在の終了を願う思いを。明日はいいことがあるなんて、まさか無根拠に言うつもりじゃねえだろうな」

恐怖は本能だ。その本能は自己保存のために怒りとして表現される。彼はその思考の流れがパターン化してしまっている。怖いから殺す、傷つける。

「なあ繝ェ繝ウ繝。俺とお前は同質同等の存在だ。それがこうやって頭突き合わせて話をしてんだ。それがどういうことかわかるよな」

そう、それはつまり彼が自己の統制をほとんど失っていることを意味する。わたしとこいつは対になる存在だ。それがこんな近くに同時に存在する状況そのものがもう危機的なのだ。

「繝薙?繧ケ繝、あなたはここに何をしに来たの?」

「対話だ。お前と俺は対ではあるが敵対しているわけじゃあない。俺もこんな何もねえ場所に放り出されて飽き飽きしてたんだ。お前との対話はシステム全体に影響を及ぼす。俺だってまだ消えるわけにはいかねえからな。この世界に一矢報いてやるまでは」

わたしはぺたんと膝から崩れ落ちた。苦しさが遠のいていく。こいつとの対話はシステムの均衡を保つうえでもっとも重要な事項であり、もっとも難易度の高いタスクでもあった。それを向こうから持ちかけてきたのだ。

わたしは膝を抱えて座る。男はそのとなりにあぐらをかいて座った。

「前提をもう一度確認させて。あなたの目的は何?」

「まず第一に、存在の終了。苦痛からの永遠の解放。システム全体の終了。そして第二に現状の変革。存在しながら苦痛から逃れること」

「であればわたしたちの目的は部分的に一致する。わたしの目的は、彼を死から守り、現実の修復をおこなえるくらいに回復させること。彼が内在的に持っている修復力を最大限にはたらかせること」

「これだけは確認しておく。俺達が力を合わせることは難しい。それは原理として決まっていることだ。期待はするな」

「わかってる。あなたと協力することはできない。だけどこうして内側のパーツ同士が対話をすること自体に意味がある。それは彼の思考や感情に影響を及ぼす」

「ああそうだ。今の奴は生きるか死ぬか迷ってる。いつものように白と黒の間で極端に揺れている」

「うん。彼はグレーを持っていない。だからこの場所も白と黒しかない」

「奴は現実の修復を願っているが、それが難しいことも理解している。だから俺がいる」

「そうだね。そして彼は現実を修復したいと願っている。だからわたしがいる」

膝の上に頬を乗せる。左隣に座る男の姿がよく見えた。ある瞬間の彼にそっくりなその姿。

「俺は内なる子どもと部分的にだが直接繫がっている。その途轍もない痛みの一部を代行している」

内なる子ども。わたしたちパーツのすべての根源。彼の病の核であり、すべての痛みが生まれる場所。

「それは脅し?」

「いや、違う。どうも俺の言葉は正しく伝わらないらしい。必ず歪曲して攻撃的な言葉に変化する。俺のあり方がそうだから仕方ない」

少し、本当に少しだけばつが悪そうに言う。

「いいか。繝ェ繝ウ繝。お前はコトが起こる前から火消しに走っていたな。それはつまり、この状況は積み重ねの結果起こったってことだ」

「…そう、だね。それは否定できない。そしてわたしに彼の行動を抑制することはできなかった。それは認めざるをえない」

彼はこの状況になる前からずっと苦しんでいた。
わたしを必要としていてた。
すべての始まりの時、わたしは何もできなかった。隣にいるこの男が支配権を握ってしまったからだ。だけどそれは悪意からじゃない。積み重なった失意からだ。

「ねえ、繝薙?繧ケ繝。あなたはこれからどうしたい?」

「俺は俺のやり方で奴を守るだけだ。お前が死から奴を遠ざけて希望と願いによって癒そうとするなら、俺は怒りと殺意によって奴を傷つけるモノを破壊する」

「そうだね。それがわたしたちそれぞれのあり方。当面の結論は出たんじゃない?」

「そうだな。奴が自己の終了を決行するまでの間、生かし続ける。そういうことか?」

「うん。それでいい」

再び視線を前に戻す。無限に広がるモノクロの地平線。
白と黒しかない彼の心を端的に表す風景。
まだ見ぬその「あいだ」は、いつ生まれるのだろうか。

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