天上のアオ 29
塔がぐらぐら揺れている。
上空から小さな十字架がいくつも落ちてきて、砕けたり地面に突き刺さったりしている。
「これは……まずいな」
男は立ち上がって上空を見回している。
「まずい」
お面の少年が復唱する。
「ああ、これは罪の清算じゃない。精神の崩落だ」
わたしはといえば、足をぷらぷらさせながら、呑気に二人のやり取りを見ている。
なぜなら、わたしは知っていたから。
再び自己の終了を願う彼の気持ちを。
外界からすべての制約を無視して、この最奥にいるわたしに直接語りかけてきたから。懺悔と、それから決意。
以前のわたしであれば、どんな手を使ってでもそれを止めに行っただろう。だが今回の彼は違う。すべてを失った先の世界を否定している。
(おい、お前も聞いたな)
獣性を司る男の声が、頭の中に響く。
空間の安定性が致命的なレベルになっているからだろう。
隔絶されていたはずのここと外がつながっている。
(うん、聞いたよ。わたしに教えてくれたよ)
(お前、それでいいのか)
(今回はしょうがない。わたしだって否定できなかったもん)
(なら俺が)
(あなたは出ていってはだめ。最期の対話までぶち壊すの?)
(くそが)
どしん、と大きな音を立てて十字架の一つが私の後頭部をすれすれにかすめて背後に突き刺さった。
「おい、何してる。はやく安全な場所に……」
「安全な場所はもうシステムの中にはないよ」
「何」
「彼の恐怖と念慮は、わたしたちが扱えるレベルをとうに越えている。精神安定剤が一定の水準までしか効果を発揮しないように、もう『超えて』しまったんだよ」
「だったらどうして君は動かない!?」
「納得してしまったから。わたしは肯定も否定もしないで見守るだけ」
そう、それが本来のわたしの役割。
彼のこれから成す挑戦と、その最悪の結果の先に待つ結末。おそらく望みは薄いだろう。彼もそれは自覚している。だからわたしに決意を伝えてきた。
「この罪たちは償われることを待っている。だけど外界でもそれと同じことが言えると思う?」
「何を」
「もうこんなもの忘れて新しく生きていきたい」
「……!」
「そういう思いがあるとしたら?償いたいのはこのシステム、つまり彼だけの都合なんじゃないかな」
「だからといっておいそれと手放すのか?」
「そうは言ってないよ。彼は対話を決意した。そしてその結末が自分の望むものでなかったとき、自己の終了を決めた」
「今彼は正常な状態じゃないんだろ?ごく短い時間でしかものを考えられていない」
「そうだね。あなたの言う通り。だけど彼は続いてく『その先』に絶望が待っていることを予期している」
「システムの、一人の人間の存在が終わることがどれだけの事態を生むか考えてみてくれ」
「それは賽の目がどう出るかって話しでもあるよ。何かが起きるかもしれない。だけど何も起きないかもしれない」
「そうじゃない。それは最悪の場合の話しだ」
「わかってるよ。外界の他者を傷つけるかもしれないってことでしょ。彼はそのことはあんまり気にしてない。きっとみんな自分が嫌いだからって思ってる」
「君の言う事のすべてが裏返しだってことはわかっているのか」
「わかってる。彼は本当は生きていたい。自分の大切なものと生きていく。それが彼の願うこと。この一文のどこかが欠けてもいけない。たとえば『大切なもの』とかね。彼はもう一度ともに生きる道を願っている。真摯に向き合おうとしている。だけど人の気持ちを変えることはできない。まして内的世界の住人でしかないわたしたちには、それを見届けることしかできない」
男は額の汗を拭って言った。
「ひとまず、対話をするんだな」
「そう、だね。たぶん」
彼は独り立ち向かおうとしている。いや、ずっと独りだった。加害者たる彼に、味方はほとんどいない。そして状況も彼に味方しない。
「今すぐに終了するわけじゃないんだな」
「うん」
「くそ。どっちみちいつ終了するかわからない状況の中でひたすらに待つってことか」
「そう、あなたの言う通り」
彼がもし生きるならそれは受容する。
彼が自己の終了をを選ぶなら、それも受容する。
もし彼が助けを求めてきたら、それに応える。
生きたいという意思がある限り、わたしは味方になる。
空間の揺れがやや収まった。
しかしわたしの体に現れている異常は収まらない。
脳に記憶がねじ込まれているような感覚。
全身を針でつつかれるような不安感。
体を動かすたびに感じる恐怖。
今だけは主人公をあなたに譲ろう。
わたしは見守るものとしてここにいる。
最期の挑戦を始めるんだ。