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「真那!聞いた?転校生が来るんだって!」
それは新学期が始まってすぐのある日。窓の外には春の日差しと舞い散る桜といういかにもな風景が広がっていた。
「このクラスに?」
「そうらしいよ!」
中学からの幼馴染である菊理雪乃が、興奮気味に席に駆け寄ってくる。私は特に驚きもなく、まあこのタイミングなら転校生の一人や二人いるだろう、と考えていた。
「男子?女子?」
別にだから何だという話だけれど、なんとなく気になって聞いてみた。
「それはまだわかんないんだってさ」
「そっか」
そんなやり取りをしていると、ホームルームの鐘が鳴る。談笑していたクラスメイトたちは慌てて自分の席に戻っていった。しばらくして教室の前の扉を開けて、先生が入って来る。
「はい、みなさん。おはようございます」
ナナちゃんせんせー。みんながそう呼ぶ高原奈々先生。1年生の時からずっとこのクラスの担任だ。私達と一回りくらいしか歳は離れていないらしく、みんな友達感覚で気安く接している。
「もう知っている人もいるかもしれないけど、今日からこのクラスに転入生が来ます」
知っている者も、知らなかった者も含め、教室全体がざわざわとする。
「はい。そこまで。時間も限られてるから紹介します。どうぞ」
先生が教室の扉に前の扉に向かって声を掛けると、静かに引き戸を開けながら転校生が入ってきた。ゆっくりと歩みを進め、教壇の隣に立つ。
ふわっとボリュームのあるブラウンのボブと、少し大き目の眼鏡が特徴的な、小柄な女の子。
私は息をするのを忘れていた。
忘れていたことにすら気づかなかった。
どくんと大きく心臓が跳ね、それでようやく息をするのを思い出した。
「御門リンネです。よろしくお願いします」
「御門さんの席はあそこね、真ん中の列の後ろから二番目の空いてるところね。招代さんの隣」
急に名前を呼ばれて飛び上がりそうになった。隣を見る。空席がひとつ。
御門さんは教壇から真っ直ぐ歩いてくると、椅子を引いて座った。カバンを机の横に掛けると、そのまま私の方を向いて笑顔で軽く会釈をする。
あんな笑顔をする人は初めて見た。いや、笑う人なんて今までいくらでも見てきたけど、純粋というか、まっすぐというか、私でもわかるくらい気持ちのこもった笑顔だった。
冷めきっていた心にほわっと柔らかい火が灯る。それはじわじわと私の凍りついた心を溶かし始めた。
そうこうしているうちに授業が始まり、時間が過ぎていき、昼休みになった。
転校生がクラス中から引っ張りだこになるのは、マンガやアニメの中だけの話だ。それでも女子の3人くらいのグループが御門さんに話しかけていた。
出身地とか、転校前のこととか、今住んでいるところとか。そういうこと。
御門さんはひとつひとつ丁寧に答えていた。直接話したわけじゃないけど、彼女の真面目さとか真摯さが伝わってくる。
私はお弁当を取り出しながら、横目に御門さんを見た。さすがに質問攻めにされてみるみる困り顔になっていく。
なぜそうしたのか、その時はよくわからなかった。
私は立ち上がると御門さんの席に歩み寄り、言った。
「お昼、行こう」
「え、あ、はい」
そのやり取りで、彼女を囲んでいた女子グループは去っていく。私は御門さんを連れて、中庭に向かった。
「あの、さっきはありがとうございました」
ランチボックスにきれいに詰められたサンドイッチをリスのように少しずつ食べながら、御門さんが言った。その仕草に視線が持っていかれる。
「来にしなくていいよ。あと敬語もいいって」
「うん。ありがとう。えっと……」
「招代真那。真那でいいよ」
「真那……私も、リンネでいいよ」
「わかった」
桜の花びらが風に乗ってここまで届いてくる。
本当は聞きたいことがたくさんあった。好きな本は?好きな音楽は?休みの日は何をしてるの?将来は何をしたいの?
でも今は、リンネとの静かな時間が心地よかった。
なんでだろう。この子には一緒に居て心地よいと感じさせる何かがあるのかもしれない。
リンネが教室に入ってきたあの瞬間から、私の中では正体のわからない感情が渦巻いている。その名前がわからない。私はそれを知らない。
彼女が私の心に灯した火は、その髪と同じように優しく揺れながら、相変わらず私の内側を温めていた。
◆
翌日の放課後、リンネはまた別の女子グループに絡まれていた。昨日と同じような質問攻めに遭ったあと、遊びに誘われているようだった。
ずきり、と心のどこかに痛みが走る。
どうして?誰と仲良くして、誰と遊ぶかなんて、リンネの自由じゃないの?
ああ、そうか。
私はリンネを独り占めしたいんだ。
気づいてしまった。気づきたくなかった。こんな醜い感情。
「ごめんね、今日は家族と約束があって」
「そっかーならしょうがないか。また遊ぼうね」
女子グループは去っていった。
「真那。大丈夫?」
「え?」
「顔色、良くないから」
違うよリンネ。私はあなたが取られるのが嫌で嫌でしょうがなくて、それで顔に出ちゃってるだけなんだ。
「大丈夫。なんでもない」
「……ならいいんだけど」
眼鏡の奥から大きなくりっとした目がこちらを見ている。
私のためにそんな顔、しなくていいのに。
「帰ろっか」
「うん」
教室を出て、階段を下りて、昇降口で靴を履き替えて、外に出る。傾いた日の光がリンネのブラウンの髪に通って、キラキラと光っていた。
「駅まで一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
誰にでもそんなに優しいの?
そんな考えが浮かんだ。そんな自分が心底嫌だった。
校門を出て駅に向かいながら、リンネはぽつりぽつりと話をした。本がとても好きだってこと、音楽はあんまり詳しくないこと、将来は社会学か文化人類学の研究者になりたいってこと。
私もいろいろ話した。中学の頃の話。家族の話。好きなアーティストの話。将来はまだよくわからないけど、とりあえず文系を選んだという話。
お互いのことを話していると、あっという間に駅に着いた。
私とリンネは逆方向だ。
だから改札をくぐったところでお別れ。
リンネと二人きりでたくさん話が出来て、満足した?
私の中の私が意地の悪い笑みで聞いてくる。
うるさい。うるさい。
出てくるな。私の心をかき回すな。
「ここでお別れだね。また明日」
「うん。また明日」
手を振り合って別れた。
私は歩いていくリンネの後ろ姿を、馬鹿みたいに立ち尽くして見つめていた。
なんでリンネを独り占めしたかったの?
どうして私だけに優しくしてほしかったの?
その感情に名前を付けてはいけない。
友達でいるためには、その先に行ってはいけない。
ぎゅうっと葛藤が胸を締め付ける。
夕日のオレンジが、ホームを照らしていた。