天上のアオ 8
暗い。
真っ暗な海か、宇宙の大空洞か。
息はできる。ならここはどこだ。
意識はある。ならまだ生きている。
仰向けに浮かんでいる感覚がある。
眼の前、ものすごく遠くに光が見える。
ふと、その光が遮られた。
人の形をした影。
敵対存在ではない。伝わってくる力場からそれはわかる。
であれば、あれは。
であれば、ここは。
「嵐の壁の中。蜒輔◆縺の意識の奥底。一番深い場所。君があの廃墟の街に来る前にいた場所。蜒輔◆縺が眠っていた場所」
少年の声と成人男性の声が重なって聞こえる。
「あなたなの?」
「蜒輔◆縺は死を望んだ。与えられた運命を拒絶するために。もう痛くないように」
「それは皆の総意じゃない。わたしはまだ生き延びているよ」
影はゆっくりわたしのいる場所に向かって沈んでくる。
「菫コ縺溘■には死ねない理由があった。菫コ縺溘■には生きる理由はなかった。それでも死ねない理由があった」
「だから一緒に生き延びてきたんじゃない」
「でも、もう終わらせようと思う」
影がぎゅっと縮まり、小柄な少年の形をとる。
「菫コ縺溘■はもう十分苦しんだ。悩んだ。成長過程で怪物に変わって、それでも人間世界のルールに適応しようと足掻いた」
「それを全部無駄にしようっていうの?」
「違う。前提が間違っている。菫コ縺溘■は生きるべきじゃなかった。生まれてきてはいけない存在だった。大切なものは全部自分で壊してきた。大切だったのにだ。菫コ縺溘■にとって宿命論に抗うとは、自ら死を選ぶことと同義だ」
「違う!少なくともそれはあなたの感情の一つでしかない。わたしたちパーツ全員の総意じゃない!」
「繝ェ繝ウ繝、もういいんだ。君にだけ色々と背負わせてしまってすまなかった」
「あなたが死んだとして状況は好転するの?違うでしょ!」
「死んだあとのことに関心はない。そこに蜒輔◆縺の存在はもうない」
「ないことが問題なんだよ!あったものがなくなる痛みをわたしたちはもう十分知ってるはずだよ!」
影は少し沈黙する。
「ねえ、あの光はなに?あれはわたしたちの希望なんじゃないの?」
「蜒輔◆縺の最大の失敗だ。希望を勝手に見出し、それに縋ろうとした。それは失敗だった。希望は妄想と同義だ」
「それでもあなたは諦めていない。だからあの光があるんじゃないの!?」
「それがつらさの原因だ。無間の闇に光が一点あれば、誰だってそれに縋ろうとする。それが偽りだったとしても」
少年の影が光を指さして言う。
「どうして希望は偽りで妄想だって言えるの。あなたにそれが証明できるの?」
表情は見えない。だが影がたじろいだ気配がする。
「わたしたちは確かに壊した。失った。それは不可逆のことだって受け入れるしかない。それがつらい。よくわかる。わたしだってあなたの一部だから」
リバースディレイのように声が歪む。
「他の全員が死に同意しても、わたしは抵抗する。わたしは生き延びて現実をもう一度修復することを選びたい」
「現実が修復可能だと、どうして君に言える?どうそれが証明できる?」
「それは…!」
だめだ。行かせてはいけない。ここでわたしが引き止めないと、わたしたちの総体としての彼はこの世から消える選択をしてしまう。
「あとは君とそれに連なるパーツたちだけだ。残りはすべて同意した。自己の存在の終了に同意した」
嵐の壁の内側。心象世界の断層の内部。もっとも苛酷な世界。
「あなたはあの子の声を覚えている。あの子に会いたいと思っている。あの子ともう一度一緒にいることを望んでいる。だからあんな光を生み出しているんじゃないの!?」
「…」
影が沈黙する。これは内在闘争だ。負けるわけにはいかない。ここでわたしが折れてしまえば、すべては終わってしまう。
「大事な人が何人もいるでしょ!まだ一緒にいたい人が何人もいるでしょ!会えなくなると悲しい人が何人もいるでしょ!」
ぽたり。頬に水の感触
わたしにはわかる。これはあなたの涙。
「わたしたちは生き延びてきた。その実績は決して否定できない。あなたにも、わたしにも。頑張ったよ。ね?あなたは本当に頑張ったんだよ…」
つられてわたしも涙を流す。
悲しいのに泣けない外の世界の彼に代わって、わたしたちは内側で涙を流し合う。
「蜒輔◆縺は、どうしたらいい?」
「生きて、生きて、生きて、納得したら死ねばいい。その時はわたしも同意する。皆の総意を肯定する。でもあなたはまだ納得していない。希望を捨てきっていない。だから余計につらくなってるんだよ…」
影は色々に姿を変える。
大人。子供。ギター。拳銃。
「つらいよね。生きてればなんとかなるっていうけど、そんなの結局他人だから言えることだよね。本当に助けてくれる人なんていないのかもしれない」
無重力の空間に雨。
こんな場所でしか涙を流せないあなた。
「下手に希望があるから、だから縋って、裏切られて、それで絶望するんだよね。もう一度戻ろうよ。今日一日を生き延びようとしていた時に」
明日に希望があるかもしれないから生きるのではない。なんとか命をつなぐために、明日も昨日も捨てて、今日だけを生きるのだ。わたしたちはそうやってあの廃墟の街を歩き続けてきた。それが無駄だったとは、誰にも言わせない。
「あなたたちは傷つきすぎた。それが世界との齟齬になった。自分のつらさを伝えるすべを知らなかった。もちろんわたしだってそう。わたしたちは傷つきすぎたんだよ」
「それは誰かを傷つけていい理由にはならない」
「そうだよ。だからわたしたちはこうなった。それは失敗だった。そのことは認めなくちゃいけない」
手足の感覚が拡散していくように薄れていく。
「明日や昨日はもういい。今日だけを見て。わたしも一緒にいるから。いままでと同じように」
溶けていく。
闇の中に体が、意識が溶けていくのを感じる。
不思議と嫌ではない。
「わたしがあなたを守る。わたしはそのためにいる」
すべての感覚が消えた。
影がどうなったかはわからない。
あの遠い光がどうなったかはわからない。
今は眠る時なんだろう。
わたしだって我ながらよく頑張ったと思う。
今は虚無の中でゆっくり休もう。
どうか、今日が無事に終わりますように。
そう祈りながら。