天上のアオ 3
時空間座標:同定不可
付記:局所的な仮想重力異常が認められる
花畑の先の家は、どうやら街の入口だったようで、奥に幹線道路のような道と、それに沿っていくつもの家屋が並んでいた。わたしたちはひとまず一番最初に発見した家屋に入ることにした。
外観こそ家の体をなしてはいたものの、他の建築物と同様、中身は床の抜けかかかった廃墟だった。建築様式から欧米のものと推測できた。一般的に人間が生活を営む用途で使用される建築物は、この世界ではとても貴重だ。それはつまり、この心象世界を作り出した彼が、私の後ろを歩く彼が、人間の存在を拒絶しきっていなかったことの証だからだ。
じゃり、と瓦礫を踏んで家の中を進む。目下の目標は彼の発作を抑える注射薬。もっといえばその合成に使える物品だった。私のバックパックの中身の大部分を占めるのは、彼の薬を注射の形に加工する機械だった。材料を入れると、薬剤が合成され、注射器に充填され、新品の注射針が装填される。
現実では不可能な作業だが、ここは半現実とも呼ぶべき空間だ。物理法則は働くが、隙はいくらでもある。
「足元、気をつけてね。抜けてる場所あるから」
鉄板の入ったミリタリーブーツならそう易々と怪我はしないだろうが、一応念押ししておく。
彼は無言で頷き、やや慎重な足取りで歩みを進める。
「私はちょっとそのへん探してみるから、休んでいてもいいよ」
彼に声をかける。
彼はとても申し訳無さそうな顔をしているけれど、気力がもう限界なのは私にも伝わってきていた。彼はごめんと小さくつぶやいて、壁のなくなったリビングに入ると、置いてあったソファのスプリングが飛び出していない部分に腰を下ろした。
よし、と私は気合を入れ、ダイニングとバスルームを順番に捜索する。結果、薬品の調合に使えそうな原料と、注射針の生成に使える清潔なプラスチックが見つかった。
水や食料は基本的に必要ない。この世界では私たちは生身のように見えるが、実際はある種のエネルギー場の集合として形作られている。だから外部から栄養や水分を接種しなくても『生きる』ことができる。諦めない限りは。
「おまたせ。色々見つかったよ」
リビングに戻って彼に声をかける。ゆっくりとこちらを見た顔は、涙に濡れていた。ここも彼の記憶や感情の何かしらを司る場所だったのだろうか。彼は私をじっと見つめて涙を拭うと、緩慢な動きでふらつきながら立ち上がった。
私は収穫物を床に広げて見せる。彼はそれを見て、ありがとうと力なくつぶやいた。それから自分のバックパックを下ろすと、私が広げた物品を一つずつ丁寧に仕舞った。
1ヶ月と2週間。
それが私たちが稼いできた時間だ。まだほんの序の口。これからずっと多くの時間、私たちはこの世界で生存していかなければならない。
始まり、つまり彼を私がこの世界で発見した頃には、彼の状態は正直手のつけようもないくらい悪かった。彼の強力な発作や強い負の感情に呼応するように、いくつものエリアがブラックゾーンに沈んだ。
私と彼はこの世界を媒介に表裏一体の存在として繋がっている。ここは彼の心象世界であり、私は彼の人格の一部だからだ。その繋がりを利用して私は彼の『治療』を続けた。その甲斐があったのか、今の彼は抑うつ的ではあるものの、一緒に探索ができるまでになった。
計測器が短くピピピとアラート音を発する。仮想重力異常の警告だ。この世界にも重力はある。だけど、ところどころで異常に遭遇することがある。最悪の場合は反転して空に落ちていく、とか。
「重力異常みたい。必要なものは揃ったから、ここはもう出ようか」
心配そうに見つめる彼に言う。彼はやはり力なく頷くと、私の隣に立った。
反意識場汚染の分布を見ながら次の目的地を決める。住宅街を抜けた先に大きめのターミナル駅があるようだ。汚染の心配はなさそうだから、そこでしばらく時間を稼げるかもしれない。
「あっちの向こうにおっきな駅があるみたい。そこまで行こうと思うんだけど、大丈夫?」
こくりと頷く。
「よし、行くよ。足元気をつけてね」
終着点のない旅。終わりのない行路。それでも私たちは生きなければならない。彼であり私であるものの、最後の希望に向かって。