天上のアオ 16
「ねえ、こんな感じでどうかな」
「いいと思う。ありがとう」
床にキャンドルを置くと、PCの置いてある机に歩み寄る。結局彼が起きても夜は明けなかった。部屋の灯りを点けようとしたが、この部屋には照明器具がないことに気づいた。そこでわたしが包帯や椅子を作り出した時と同じように、キャンドルをいくつも作って火をともした。
昔こんなふうにすごした夜があった。彼と記憶を共有しているわたしは、その夜のことを覚えている。まだわたしにはっきりとした名前や形がなかった頃の話だ。停電の夜、彼は部屋中にキャンドルを置いて灯りにしていた。そのことを思い出して同じようにやってみたのだ。
「プレゼントはそれでいい?」
「うん。これにしようと思う。しばらくしたら飽きちゃうかもしれないけど、それなりに長く使えるはずだから」
そう言う彼の見つめる画面には、小さな6弦ギターの写真があった。悩みに悩んだ末の一品だ。気に入ってもらえるかどうかより、彼はその心が届くかを考えていた。
「あとは誕生日だ。プレゼントもそうだけど、話ができるかどうか」
1週間後、彼は安全な場所に着く。
一定の自由と引き換えに命を保障される場所に。
ようやく身を預けられる場所に行けるのだ。
「行ってみないとわからないね。電話くらいはできるといいんだけど」
今の彼は、どれだけ自分の言葉を、心を届けられるかを心配している。その機会が得られるかは、まだわからない。それが不安なんだ。
ふう、と二人でため息をつく。
「不安なこと、書き出してみる?」
「そうするか」
メモアプリを立ち上げると、箇条書きで不安要素を書き始めた。準備、連絡、注文、移動、お金、適応、その先。要約するとそんな感じのこと。
その先のことは正直わたしも不安でしかない。わたしは彼の安全確保のみに目的を絞って行動してきたから、その先のことは頭になかった。だけど彼が本当の意味で危機を脱するためには、根拠のある希望が必要だった。家族の待つ家に帰るという、そのただ一つがあれば、システムは一気に回復するはずだった。
だけど、それはたぶんすぐには難しい。わたしとあの男が話していたように、現実の修復が必要なのだ。それは逆説として、今の現実は彼にとって非常に望ましくない状況にあるということ。
助けてくれる人はいない。システム全体の安全を外的に支えてくれる人たちはいるけれど、彼が現実に対峙することを直接的に助けてくれる存在はいない。
たった一人で異なる心と対話を重ねないといけない。しかもこの上なく冷静に。根本的な焦燥と不安はその先で解消されるものだ。つまり彼は一定の焦燥と不安を抱えながら、それを制御して冷静で真摯な対話を続けなければならない。今の彼にはまず不可能だ。そういう必死さは獣性を司るあの男をすぐに呼び覚ましてしまう。
(わたしももっと力をつけなくちゃいけないってことか)
私が司るのは彼の人間性、そしてそこから生まれる社会性。それらは冷静な対話に不可欠な要素だ。現実の彼が安全に休んでいる間、わたしはもっとうまく立ち回れるようにならないといけない。まだ力が足りない。けれどそれは彼が精神的に成長してくれれば、おのずと解決する問題なはずだ。
「明日から忙しくなるな」
「そうだね」
画面端に表示されている持ち物リストを見て言う。
「ねえ、会えるかもしれないんだよね」
「そうだといいな。そのためのこの日程だから」
もしその時が来たら、また彼には何かしらの変化が起こるだろう。それが良いか悪いかは別としてだけど。
「なんだか疲れたね」
「そうだな」
「頭使うの、まだ難しいね」
「こんな状態じゃしょうがない」
「また眠る?」
「いや、もう十分眠ったから大丈夫。今は君と話していたい」
「わかった。付き合うよ。いくらでも」
「ありがとう。俺も君みたいだったらな」
「みたい、じゃなくて、わたしだったら、じゃないの?」
「バレてたか。そうだよな。君になりたかった」
「あなたがあなたでいて、大変なことがたくさんあったもんね」
「だから君は俺の願いなんだ。決して叶うことのない」
「あなたはわたしの形にはなれないから。生まれ持った形は変更できない。それにわたしはあくまでも心の断片のひとつ。どれだけ強固な形と立派な名前をもらっても、あなたとして生きることはできない」
「そうだな。ときどきそれが悔しくなることがあるんだ」
「わかるよ。今もそうでしょ」
「ああ。まさに」
パタンとノートPCを閉じる彼。
ディスプレイの明かりが部屋から消え、無数のキャンドルが部屋を照らす。
さながら礼拝堂のように。だからわたしは祈ろう。
彼の願いは叶わないけど、その思いは報われますように。
そして、彼の望みへ至る道は険しいけど、それを踏破する勇気と理性を我らに。