
ツイてる、ツイていないとか
わたしは小学生の時から何度か鳥のフンを落とされたことがある。ランドセルだったり、頭だったり。
これは自分ではネタみたいに笑い話のつもりだった。
しかし、この話をすると周りの人達は「ツイてなかったね」と言った。(周りを責めてるわけではない)
大人になればその言葉はわたしの気持ちに同情して言ってくれたことだとわかる。
でも子供のわたしはただ単に、アハハッと笑い飛ばしてもらいたかったのだ。
そして、これを何度も言われると不思議なことに
「あ、れ?もしかして
ワタシッテ ツイテイナイ…ノ、カ、モ?」
と思ってくるのだ。笑
ブレずに
「いや、そんなことないけどね!ニコッ」
と言えたら良かったのだけど、わたしはブレた。
ブレまくった。
だから頭の片隅にいつも
ワタシッテ ツイテイナイノカモシレナイ…
があった。
中学生、高校生では、運動部でスポーツ好きなくせに絶対にやりたくない体育委員にじゃんけんで勝ってなってしまったときも(勝った人が負けのじゃんけん)
1年生で苦手だった担任の先生が3年生でも担任になったときも
社会人なりたての頃、なぜか上司の尻ぬぐいをさせられるようなことがあったときも
ワタシッテツイテナイノカモシレナイ…
が頭をよぎった。
でも、その後にフンを落とされることが海外ではラッキーと言われることを知った。
やっぱりフンが落ちてくることは悪い話じゃなかったんだ!
と視界がパアッと明るくなった。

そこから
フンを落とされたわたしはラッキー
を取り入れるようになった。(単純)
ただ、すぐにそれを100%取り入れられたかというとそうではない。徐々にそう思えるようになった。
だから、自転車に乗っていてカラスに頭に柿を落とされた時(めちゃくちゃ痛かったけれど笑)
「海外では鳥にフンを落とされるとか幸運らしいよ!柿なんてもっとレアだよねー」
•̀.̫•́✧
と堂々とテキトーなことを言えるようになった。
ツイテイナイノカモシレナイ…はどこかに行ってしまった。
だから周りがどう言っても
ツイてる、ツイていないというのは自分でいくらでも選べることなんだと思う。
ツイていない、というフィルターを使えばいくらでもそう思えるし、逆も然り。
自分がツイている、と思えばそうなる世界に生きている。(無理にポジティブシンキングではなく、自然に思えること)
巷でよく言う、自分の思いたいように自分の世界はつくられる、というのはそういうことなんだろう。
それならばわたしは自分の気持ちにしっくり来る方を選んでいきたいと思うのだ。