なんなんだよ国語力!!
国語力というのは英語の様な努力で向上するものなのだろうか。語彙をひたすら吸収して早く聞く練習をして文法をマスターすれば国語力は良くなるのだろうか。
答えは100%「はいそうです」ではないだろう。
確かに長文読解においては文法に強ければ強い程理解が早まるであろうし、早く聞くことが出来れば思考力も上がるし、何より語彙力なんて文章で表そうが口頭で伝えようが言語を形成する上である程度の引き出しがあることが前提条件だと感じる。
だが国語力にはただ素早く国語の問題を解くための力ではないはずだ。
構成力だったり発想力だったり分析力なども含まれていると最近は痛感している。
でないとどう考えてもあの子よりも私の方が点数が低いはずないのだ。
S子より私の方が語彙に長けてるはずだろうし、正しい文法だって使えるはずなのだ。
なのに何時までも私の点数は伸びない。これにはその他の要因があるはずなのだ。(というかあってくれ頼む)
(この結論においても批判的に考えれば、単純に私があの子よりただ日本語ができない、という事も有り得るのだが。だとしたら私の今までの努力は何だったのだろうか)
多分S子にあって私にないものは、批判的思考能力、物事を簡単に伝える能力が大まかなものだと思う。
批判的思考能力は私のテストにおいていかにアイデアを思いつくかに関わってくる。これは仕方ないと思う。私は今までは ゛真面目に ゛生きてきたのだ。自分で考えないで、既にある意見を飲み込むのが上手なんだよ。
でもあの子は真面目に授業を受けてこなかった。授業を休んだり何も聞かなかったなどの普通の不真面目さもあったが、何より先生の話を批判的に聞いていたんだと思う。
基本的に人間が嫌いだからなのだろう。彼女は。
正直真面目に授業を聞いて今まで優れた成績を貰っていたのに、教育システムが変化しただけでこうも評価のされ方が変わるのかと思うと、たまに今までなんの為に勉強してきたのだろう、とは思う。
それはさておき
私たちの国語のテストは、今まで私たちがどう自分なりに思考して生きてきたがが明確に点数に現れているようなのだ。
私は今まで文章を書く際、ひたすらに長く書く能力が着いだと思う。(早く規定のワード数を越すためだったなぁ)
しかし今では規定のワード数を超えてはいけない課題しか与えられない。
この縛りは長ったらしく、わかりにくい文章を書く私にとって最悪な相性なのだ。
だがこの縛り、将来社会に出てから重要になる事は明らかだ。
伝えたいことを、端的に、明確に伝えてくれた方が、効率の面でも理解の面でも圧倒的に便利だろう。
本当の事は知らないけど、あの子は余計な日本語能力がない気がする。
そもそも英語能力が(母国語だし)素晴らしいから、それに影響されて日本語も上手なのかもしれない。
例え言語が違くても、構成力や表現力などの国語力は変わらないのだろう。
という訳で、今回の結論をまとめよう。
国語力は今まで自分がどう生きてきて、どう言語を扱ってきたかが多大な影響を与えると考える。
その為その人の思考プロセスが文章や喋りのレベルを決定するのかもしれない。
そして今私に必要なのは、今までしてきた余計な文章構成知識を早く捨てて、短くわかりやすく相手に伝える事だと感じる。
また常に批判的に物事を観ることによって人間の思考力が向上する。これは結果的に国語力増加に繋がるが、きっと他の面でも多大な影響を与えるだろう。
(追記)
ん?なんかめっちゃ書いてない??笑