中国語表音法へのエスペラントの影響
【中国語ピンイン誕生60周年記念】
中国語をラテンアルファベットで表記する方法として、現在、世界では広く「漢語ピンイン(Hànyǔ Pīnyīn)」が用いられている[1]。漢語ピンイン成立以前には、中国語母語話者のために「国語ローマ字(Gwoyeu Romatzyh)[2]」や「ラテン化新文字(Latinxua Sin Wenz)」が作られ、使われており、漢語ピンインの基礎となった。特にラテン化新文字は中国北部の識字率を上げたシステムとして非常に重要であり、Chen によると1933年から1944年までに300以上の出版物、総計50万冊に使われた[3]。このラテン化新文字運動の展開の中心で、複数のエスペランティストが活躍していたことをご存知だろうか。実は漢語ピンイン制定に至るまで、中国語の表音法はエスペランティストによって作られ、エスペランティストによって発展してきたことが指摘できる。以下に記す経緯の概要は徐春偉の記事「汉语拼音60年︱拉丁化新文字,人人争做仓颉的激情年代」に基づく。
※ 本文では中国人名は日本の漢字を、発音は原則として漢語ピンインを用いて表記します。
ラテン化新文字の誕生
▲『ラテン化教科書』1935年、上海
1929年、モスクワ在住の中国人学者瞿秋白(く しゅうはく、Qú Qiūbái)と、ロシアの言語学者コロコロフ(V.S. Kolokolov)が、モスクワの中国ソビエト科学調査研究所で開発された北方方言用のラテン化新文字を改良して、ラテン化新文字(以下「新文字」と呼ぶ)の原型を考案した。瞿秋白は革命家、作家、文学評論家であり、中国共産党の初期最高指導者の1人である。1931年、ドラグノフ(A.A. Dragunov)、蕭三(しょう さん、Xiāo sān)らが加わり、さらに改良して完成した。発表後、急速に活用され始め、中国本土では郭沫若(かく まつじゃく、Guō Mòruò)や魯迅のような知識人が新文字の普及を進めた。
30年代初頭の国民党支配地域では、一般大衆はこの情報から隔絶されていたのであるが、1933年、浙江省の方善境(Fāng Shànjìng)が、ソ連のエスペラント刊行物『La nova etapo』に掲載されていた蕭三の「中国口語体のラテン化」を読み、中国語に翻訳した(Hou, 2004)。これが国内文化界の注目を浴びた。方善境はTikosの名で知られたエスペランティストであった。このことは胡国柱「方善境老逝世二十周年纪念 两封旧信」にも書かれている。また、同年に方善境は、中国語で「中国語書法ラテン化問題」という文書を著し、新文字を推奨した。
上海は新文字運動の中心となった。1934年、上海文化界に大衆語論争が起き、白話廃止や古文教育の重視を唱えた汪懋祖(Wāng Màozǔ)らに対し、魯迅らは話し言葉を活用すべきとして大衆語論 [4] を展開した。新文字運動にとってこの環境は追い風となった。葉籟士(よう らいし、Yè Làishì)は、「表音文字で方言を書き表せば、識字率向上の利器となる」とし、大衆語運動との相互促進作用を主張。大衆語発展の重要段階に、各方言を新文字で表すことを提唱した。薄守生によると、葉籟士はĴelezoの名で知られたエスペランティストで、「中国文字改革委员会」によると、後に中国文字改革委員会秘書長、副主任、顧問を歴任している。同年10月に魯迅も、新文字は識字率向上の利器であるという内容の文章を発表した。
同年8月、葉籟士らは上海で「中国語ラテン化研究会」を発足。新文字の普及にあたった。同研究会は小冊子『中国語書法のラテン化――理論・原則・方案』を出版。11月、上海エスペラント協会刊行の『言語科学』誌上にて方善境の「寧波方言ラテン化草案」が発表され、新文字の大衆化と方言化の第一歩が実現した。
1935年12月、ラテン化新文字は運動史上の節目を迎えた。全国の新文字研究団体の総会として、上海で「中国新文字研究会」が発足。全国各地の新文字運動家の協調の場として重要な機能を果たした。研究会は蔡元培(さい げんばい、Cài Yuánpéi)、孫科(そん か、Sūn Kē。政治家)、魯迅、陶行知(とう ぎょうち、Táo Xíngzhī。教育家)、陳望道(ちん ぼうどう、Chén Wàngdào。言語学者)ら688名の国内各界著名人の連名により「われらの新文字推薦意見」を採決。「(日本による東北部侵攻を指して)中国はもはや生死の境目に到達している。われわれには大衆教育が必要であり……中国大衆が必要とする新文字、それはアルファベット・システムによる新文字である」とし、新文字普及のための具体案を提起した。蔡元培は政治家、教育家で、付暁峰「蔡元培的中国世界语梦 - 党史频道」によれば、エスペランティストである。
大衆語ラテン化新文字の広まり
1913年に漢字の標準発音を定めた“読音統一会”の会長、呉稚暉(ご ちき、Wú Zhìhuī)は、当時に提案された表音方式は実に多種多様で「人々が倉頡(伝説上の漢字の発明者)になりたがっていた」と語っている。それに比べてもラテン化新文字による大衆語運動の勢いは凄まじく、各方言を表現するラテン化方式は多数提案され「人々が先を争って倉頡になった」と言うべき状況であった。
1934年から1937年、北方方言ラテン化新文字をもとに、寧波方言、上海方言(江南方言)、蘇州方言、無錫方言、温州方言、福州方言、アモイ方言、客家語、潮州方言、広西方言、湖北方言、四川方言など13種類の方言を表現する方式が作られ、県レベルの方言に対応するものもあった。同時期に胡縄(こ じょう、Hú Shéng)が『上海方言新文字概論』を著し、陳原(ちん げん、Chén Yuán)も『広州方言新文字教科書』を編纂した。胡縄は、社会科学者である。石仲泉「胡绳是怎样成为学界大师的」によれば、エスペランティストである。陳原は社会言語学者。譚秀珠「“中国社会语言学之父”陈原:对世界语的研究贯穿了他一生」によれば、中国国家言語文字工作委員会副主任で、1986年の第71回世界エスペラント大会の実現に尽力、中華全国エスペラント協会名誉会長であった。
国民党はしばらく新文字を禁止する方針を取っていたが、方善境、葉籟士ら新文字運動の中心人物の努力により、1938年9月には、国民党の拠点都市漢口にも『Zhungshan siansheng di SANMINZHUJI(中山さんの三民主義)』などのラテン化新文字版の書籍が出回るようになった。
共産党はラテン化新文字運動を積極的に支持し、各解放区に新文字研究会が発足した。この時期に発行された切手や教材に新文字が印刷されており、実用されていたことがわかる。1938年までに上海40ヶ所の難民収容所で3万人の難民が新文字で教育を受け、教育成果は良好であった。
1949年10月、中国語ラテン表記の研究と制度化を目的とした「中国文字改革協会」が成立。1951年12月には胡愈之(こ ゆし、Hú Yùzhī)らが委員として参加する「中国文字改革研究委員会」が設置された。胡愈之は評論家で、于涛「胡愈之,超越时代的国际主义者 --纪念胡愈之诞辰110周年」によると、中華人民共和国の要職や中華全国エスペラント協会会長、世界エスペラント協会名誉賛助委員会会員(Honora Patrona Komitato de UEA)を歴任した。
1958年2月、胡愈之、葉聖陶(よう せいとう、Yè Shèngtáo)らが、他方式を参考にラテン化新文字を改善した『漢語ピンイン方案』を提案。全国人民代表会議はこれを採択し、ついに公式の中国語のラテン文字表記法が定まった。葉聖陶は作家、ジャーナリスト、教育家、政治家で、張蕾「读懂世界语就读懂世界」によると、中国エスペラント友の会の発起人のひとりである。
瞿秋白はこう述べている。
中国語のラテン文字化運動にもエスペラントとエスペランティストが深く関わり、現在のピンインの礎を作ったのである。当時の知識人の多くがエスペラントに触れていたことは知られているが、その影響の深さを改めて知ることができた。
参考文献
Hou Zhiping (red), “Esperanto kaj la Reformado de la Ĉina Skriblingvo” en Konciza historio de la ĉina Esperanto-movado, 2004 Beijing.
薄守生、赖慧玲、『百年中国语言学思想史』、中国社会科学出版社、2016年。