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スキーバス事故の被害者のSNS顔写真を使った朝日新聞の記事を見て出羽守かます

10数名の大学生が亡くなったバス事故はとても痛ましく思う。ニュースジャンキーを自覚する私だが、だからこそ、今はニュースで詳細を追うのをわざと避けている。色々と気が滅入るからだ。

それでも目に入ってきてしまうところでは、毎日のようにバス会社の運営や対応を細かく細かく暴くのが日本のマスゴミのスタイルらしい。おっさんが3人、カメラの前で土下座してるのも観たけど、なんだかいたたまれなくなってチャンネルを変えてしまった。そんなことしたって亡くなった若者たちは帰ってこないんだけど?

マスゴミに今できることがあるとしたら、根底にある劣悪な労働環境がバス業界にどのぐらい蔓延しているのか、規則さえ徹底すれば運転手が疲れずに安全に走れるものなのか、これから国内の観光ビジネスは先細りするばかりなのはわかっているのに、外国からもっと観光客が来てもちゃんとお金を落としていってもらえるようにツアーバス確保などの体制が整っていないのはなぜなのか、あるいは、より便利なものをより安い価格で提供することをばかり求められるこのデフレ経済からどうすれば脱却できるのか、そんな視線で調査報道でもやってみろっつの。

そんな中で朝日新聞が載せていた「スキーバス事故で亡くなった方々」という記事をウェブで目にした。アメリカのマスコミに接していると、ああ、日本の被害者報道もこういうことを(真似だとしても)やるようになってきたんだなぁ、ぐらいにしか思わなかったが、このスタイルがけっこう批判の的になっているので、私がなんでこれを「アメリカ流」と思ったのかを説明してみる。

何か事件があって大勢の人が殺されたり亡くなったりした時、マスコミは概して、犯人は誰で、どういう素性の者なのかを真っ先に些細に報道しようと競争するのはどこも同じ。しかも、アメリカでは、社会から無視されていると思い込んだ者が、一時的にも世間様の注目を集めるために大きな事件を起こすことも度々あって、テロリストや犯人が事前に犯行声明を用意している場合さえある。こえー国なのだ。

だから、アメリカのマスコミ業界には、こういった取材合戦が犯罪を助長する面もあるという反省がある。

事件を起こした悪いヤツばかりが取り上げられ、その陰で、もう自分で声を挙げることのできない被害者たちのことをどう伝えればいいのか。それを考えるとやはり、彼らが「生きていた」その片鱗を感じさせる記事も心がけようよ、という考えがあるから、被害者たちが被害者となる前のプロフィールを載せるのだ。

これが日本だと被害者は、出身地、年齢、出身校、所属などが淡々と同じパターンで羅列され、写真は証明写真みたいなのが、これまでのスタイルだった。でもこれって、事件の犯人の情報を流すのと同じ。ニュースをぱっと見で写真が犯人のものなのか被害者のものなのか一瞬わからなかったって経験、ありません?

まず、これがプライバシーの侵害に当たるかってな話だけど、写真は見たところ、どれもSNSで本人が公開しているものを使い、出典を記載している。これは朝日だけのようだ。本人の許可は取れないわけだが、遺族の人に話を聞く際に口頭で許可をとっている可能性もあると思われる。それもわからないまま叩くのはどうなんですかね?

こうすると、どうしても遺族が取材を拒否したりして情報が集まらない人も出てくる。それを「紹介する価値もない」ような人間のように感じる、などと言う意見も見かけたなぁ。なんでもみーんな同じ、じゃないと気の済まない人たち。

アメリカは個人主義の国なので、そうやってみんな同じ扱いをする事の方がおかしいとされる。そういう考え方もある。

大学生の子たち(ごめんね、みんな若くて、可愛くて、どうしても「子」って呼びたくなるオバサンを許して)皆それぞれに取り組んでいたこと、やりたかったこと、夢見てたこと…あるいはそんなものがなくて、スキー三昧のぐうたら人生を送っていたとしても、こんな事故で命を奪われるのは悲惨であることに違いはない、というのがこういう記事が伝えんとするところだろう。

それと、勝手に「写真は遺族から借りるルール」なんてものを主張していた人も見かけた。新聞社独自のルールなんですか?それとも自分の中でのマイルール? それがルールってことは、家族のいない学生、家族とは疎遠にしている学生は載せてもらえないの? でも、ネット時代なんだからSNSに顔写真を「公開」する時点で、他の情報とリンクされそれを引用されたりするリスクもあると心得てやるもんじゃないの?

確かに、もうこの世にいなくなってしまった人がどうしたいか、それを確かめることはできない。でもいっせいに顔写真もダメ、なんてことになったら事件や事故のことは知られても、その人が生きていたことは周りの人だけにしかわからない、ってのが幸なのかか不幸なのか、どこまでがフェア・ユースで許されるべきか、どこでマスコミに線引きを委ねるのか、もう少し冷静に、人道的に、議論する余地はあってもいいと思う。

こちらのブログは他紙との比較もあり、顔写真の引用について書いています。

ちなみにこのノートの冒頭の写真はアメリカの同時テロ事件の被害者の顔写真を集めたもので、生き残ったテロリストの裁判の時の資料として公開されたもの。名前を羅列したり、数字を出したりするのとはまた違ったインパクトがあるでしょう?

もうひとつ、付け加えるなら、アメリカのマスコミだったら今回のバス事件のような場合、運転手2人のプロフィールも同列に載せてるよね。「事故を憎んで人を恨まず」だから。個人主義の社会であっても、こういうところだけ自己責任と故人を責めることはしない。このバス会社だけバッシングすることもない。なぜこんな事故が起こってしまうのか、どうすれば二度と起こらないようにできるのか、残された家族が悲しんでいる間、それをニュースで知るだけの人に何ができるのか、それを考える材料を提供するのがマスコミの究極の使命だから。

追記:報道資料研究会でちょうど昨年、このあたりのトピックで三村量一弁護士の見解が載っていた。SNSの顔写真については「報道目的であれば許諾なしで利用できる」とのこと。

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